自分の中に幸せをみつける
自分の中に平安を見出せる人は、幸せです。
内側に存在する圧倒的な平安、安らぎ。
それがあれば、どんな困難も軽々と乗り越ることができます。
反対に、自分の外側に平安や幸せを求めたとしても、はかなく泡のように消えてしまいます。
幻想を抱いて生きる
多くの人は
「今よりも経済的に豊かになれば幸せになれるだろう。
苦しみから逃れられるだろう。
知名度が上がれば、地位や名誉を手に入れれば人から称賛され尊敬され、心からの満足感を得られるだろう。」
という想いを抱いて生きています。
何かを得た瞬間は、喜びを実感できるでしょう。
しかしその満足感は長続きせず、新たな不安や心配、恐怖、不満が生まれます。
経済的な豊かさをもってしても、地位や名誉、知名度を手に入れても、次々と生まれる不安や恐怖から逃れることはできないのです。
人が内側に平安を見出すことなく、物質的欲求を満たす行為を続けると、「盛者の不幸」を経験し続けます。
盛者の不幸とは
「盛者の不幸」の例として次のようなものがあります。
・自分よりも経済的に豊かな者、才能がある者と自分を比べ、相手に嫉妬し、みじめな気持ちを抱えている。
・人を信用できない。自分の財産や地位が奪われるのではないかと疑心暗鬼に陥いる。
・財産や地位、名誉を手に入れても心が満たされない。
・身内や特定の人以外は信用できないため、人からも信頼されずジレンマに陥る。
・欲望のためにお金を使い、他者や社会への奉仕、投資を忘れて、人からケチと言われ尊敬されない。
・まわりでいつもトラブルが起きている。
・「自分は特別な人間だ」と勘違いをして傲慢になる。
・人から大切にされたこと、受けた恩を忘れ、信頼できる人が離れていく。
この「盛者の不幸」に関しては、平安時代の「平家物語」にも描かれました。
「平家物語」には、平安末期に現れた名門一族「平家」の栄華と滅びが綴られています。
歴史的事実に基づいており、あらすじは隆盛を極めた平家が源氏の台頭により、その地位を奪われ、
壇ノ浦の戦いで源義経に滅ぼされるという物語。
平家の栄華と没落の様子を端的に表したのが、冒頭の言葉です。
平家物語・冒頭より
祇園精舍(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き(たけき)者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
〈現代語訳〉
祇園精舎(※1)の鐘の音は、この世の出来事に不変なものはない、ということを伝えている。
(お釈迦様は沙羅双樹の樹の下でお亡くなりになられたが)その沙羅双樹の花の色は、威勢(いせい)の良い者も必ず滅びてしまうものであるという道理を表している。
驕(おご)り高ぶった人も、いつまでも驕り高ぶっていることはできない。
それは春の夜の夢のようにはかないものである。
勢いのあった者も最後には滅びてしまう。すべてのものは続かない。
まるで風の前の塵(ちり)と同じである。
※1.祇園精舎とはお釈迦様がご説法されたお寺のことです。そこの西北の角に無常堂があり、修行していた僧侶が病気になり、死期が近づくとそこに移されました。
そして臨終を迎えると、建物の四隅の鐘が鳴りました。
つまり、祇園精舎の鐘の音は、僧侶の命が一つ消えた時に鳴る音でした。
平家物語は、仏教の無常観が根底にあり、
またインドのヴェーダ哲学においても「生とは苦しみである。」
と記されます。
仏教においても、ヴェーダ哲学においても、平家物語の冒頭に表されたことを伝えています。
「自分の幸福、利益を最優先する者は、不幸と隣り合わせである。その者はやがて滅びゆく。」
これは今も昔も、未来永劫変わらない世の法則です。
滅びゆくとは、生活の状態を表しているのではなく、その人の心の状態(精神を病む様子)を表します。
パラマハンサ・ヨガナンダ師の対話集より一部抜粋してご紹介します。
「パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」より
第1章 唯物主義の愚かさ
パラマハンサ・ヨガナンダは言いました。
「物質科学は人類の環境を改善し快適にするために自然の力を利用します。
霊性科学は魂を覚醒させるために知力を利用します。
知力によって、人は内なる幸福に至る道を知り、その内なる幸福によって、外側で起きるさまざまな困難を困難でなくしてしまうのです。
これら二種類の科学のうちで、どちらが役にたつかといえば、まぎれもなく霊性の科学の方ではないでしょうか。」
「すべての時間を、消え去りゆくものに費やして何の役に立つでしょう。
人生とは、まさに劇であり幻影に過ぎないという真実を教えるための教訓劇なのです。
愚者はその劇を真実でいつまでも続くものだと思い、悲しい場面で泣き、幸せな場面が長続きしないと嘆き、さらには、その劇が最後には終わってしまうと悲しみます。
苦悩とはそうした霊的盲目への戒めなのです。
しかし賢者は、そのドラマを観て、それがまったくのまやかしであることを知っているので、内なる真我の中に永遠の喜びを探求します。
生命とは、その扱い方を知らない者には、恐ろしい機械装置のようなものです。
遅かれ早かれ、その人自身を灰にしてしまうのですから」
「百万ドルを稼ぐのに三十五年間もかかった自分に、どうにも我慢なりません」と不平を言う男に、ヨガナンダはニューヨークで出会ったことがあります。
「そんなにお金持ちなのに、まだ不満なのですか」と師は訊ねました。「全然、満足できません。私の友人はその数倍も稼いでいるのですよ。四千万ドルは稼がないと満足できません」
そのビジネスマンは、そう嘆息したのです。
後半パラマハンサ・ヨガナンダはこのエピソードを思いだして話すと、最後にこう付け加えていました。
「その後まもなく、彼は平穏で幸福な人生を送ることなく神経を病んで死んでしまいました。四千万ドルの稼ぎには届かなかったそうです。
ゆきすぎたこの世の欲望の結末とはそうしたものなのです」ヨガナンダは言いました。
「かつて、一匹の犬が、小さいのにいっぱい荷を積んだ荷車を引かされている漫画を見たことがあります。
飼い主はその犬に車を引かせるための巧妙な仕掛けをしていました。犬の頭越しに竿を取りつけ、その長く伸びた突先にソーセージをぶら下げていたのです。 犬はそのソーセージを咥えようとしても咥えられないまま、ただただ前進し、自分が重い荷車を牽いていることにほとんど気付いていません。
ビジネス界でこれと同じ人がどれ程いることでしょう。
彼らは、いつも『もし、もうすこし多くのお金を手に入れられたら、きっと幸福になるだろう』と考えていますが、そのソーセージを掴もうとするとなぜかいつも逃げていってしまうのです。
つかもうとして手を伸ばしながら後ろにひきずる、車一杯の彼らのトラブルや心配の荷物の多さには驚くばかりです。」
「内側に平和をもつことなく物質的な富を持つことは、湖で水浴びしているのに喉を渇かしているのと同じなのです。
もし物質の欠乏が忌避すべきものなら、霊性の欠乏はさらに嫌悪すべきものです。
人類の苦悩の核心にあるものは、物質の欠乏ではなく、霊性の欠乏だからです」
「ひとは、贅沢には代償が伴うことを忘れています。
贅沢をすれば、とめどなくますます神経と頭脳エネルギーを使うようになり、あげくに寿命まで縮めてしまいます。
唯物主義者はあまりにもお金儲けに夢中で、それを手に入れた後でさえ、安らぎを味わえるほどにはリラックスできません。
現代社会はなんと満たされないものでしょう。まわりの人を見てごらんなさい。
幸せだと思いますか?
多くの人びとの悲しい表情を見なさい。その目の虚しさを見てごらんなさい。
物質的生活は、幸せを約束して微笑みながら人々を誘惑します。
しかし唯一確かなことは、そうした約束はすべて破られるということです。」