マハーバーラタはまったくの創作物語ではなく、作者である聖仙ヴィヤーサの自叙伝と言われる親族間の確執と戦争を描いた物語です。
悪役も含めて様々な登場人物が、まるで自分の一部であるかのような不思議な感覚を覚えるため、時間を忘れて読み進めることができます。
「インドの聖典」(著・ムニンドラ・パンダ/(有)アートインターナショナル)では次のように解説されています。
「一回読むことでまずは物語を把握できるようになります。
二回目になりますと、物語を知った上でそれぞれの登場人物同志にどのようなつながりがあるのかを「カルマ理論」の視点から理解することが出来ます。
三回目に読んでみますと、これらの登場人物は自分とは関係のない第三者ではなく、すべては自分自身の内側にある様々な側面であると悟ることが出来ます。」
登場する人物たちが自らの衝動や怒りによって身を亡ぼす様子が描かれています。
それは現代人の姿と何ら変わりません。
マハーバーラタに登場する人々の言葉をご紹介します。
「人間はとやかく自分でわかってはいながらも、飲む、打つ、買うの誘惑に負けて自滅の道を走ってしまうことがあります。」
「不幸な運命の犠牲者は、まず善悪の判断をまったく失い、正道を踏み外してしまいます。
すべてを破壊する”時”は、棍棒(こんぼう)をとって人間の頭を撲(なぐ)るわけではありませんが、人間の判断力をこわし、気狂いのように自滅の行為をとらせます。」
「真理というものは、力や金よりもはるかに偉大なるものであり、いかなる犠牲をはらってでも守られなくてはなりません。」
「いかなる有徳の士といえども常に高潔な生活を営めるほど強い人はおらず、いかなる罪人といえども罪のひとうねりのなかにとどまっておれるほどの悪人はいないものじゃ。
人生はあざなえる縄のごときもの(※)で、この世の中に善悪ともに為さざりし者はひとりもおらぬ。
いかなる人間も己の行為の結果は自分で受けねばならぬもの。
さればこそ、悲しみに負けてはならぬぞ。しっかりなされ。」
※あざなえる縄とは、より合わせた縄のように交互にからみあっている様子を示している。
どんな理由があろうとも不義理や裏切り行為をすれば、いずれ自分の身に同等かそれ以上の苦しみがやってくるのがカルマの法則ですが、誰しも正しい行為だけをすることは不可能であり、よかれと思って行ったことが災いを引き寄せる原因になることもあります。
どんなに高貴な人であっても、聖人ですら自分で蒔いたカルマの種を自分で刈り取ることになります。
罪人も罪だけを犯すことはできません。
善行をなすこともあります。
カルマの法則の結果、自分の身に不幸がふりかかったとしても、大げさに嘆いてはなりません。
不幸の嵐を気にせず、正しい行動を取り、やり過ごすしかないのです。
嫌なことが起きたからといって悲嘆にくれたり、反発した行動を取ると、また新たなカルマを生じさせてしまいます。
「そなたは己ほど不幸な者はこの世にいまいなどと申しておるが、それは間違いじゃ。
もっとも、不幸な目に遭った者は誰でも、とかく己の悲しみを最大のものだと言い張る傾向があるが、それは、身をもって感じたことは、見たり聞いたりしたことよりも強い衝撃を受けるからじゃ。」
数々の言葉が響きます。
参考文献
・インド思想入門 ヴェーダとウパニシャッド/前田専學/春秋社
・インドの聖典(著・ムニンドラ・パンダ/(有)アートインターナショナル)