Views: 502
道徳経
道徳経は、春秋時代(紀元前770年~紀元前5世紀までの320年に渡る期間)に思想家の老子によって書かれたと伝えられる書です。
上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成されています。
上篇は、この第1章が「道」で始まることから「道経」とよばれ、下篇の「徳経」と区別されていますが、この区別に特別な意味はありません。
古来中国では、孔子・孟子を祖とする儒教(孔孟思想)と老子・荘子を祖とする道教(老荘思想)が人々に影響を与えてきました。
儒教が”人の道”の規範として「仁・義・礼・智・信】といった徳目を説き、社会のきまりを築く「秩序の思想」であるのに対して、道教思想はあたえられた現実に自足しながら、人生をいかに楽しむかという「癒しの思想」を説いたものです。
二つの思想は単独にあるものではなく、互いを補い、人の心の表と裏のように相互作用し補いあっている考え方であります。
中国の学者、林語同は、
「儒教が中国人の働く気持ちであるように、道教は遊ぶ気持ちである。成功すれば儒教の徒となり、失意の時は道教を奉ずるようになる事実が証明している。道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮静剤なのだ。」と述べています。
また、この道徳経(DaoDeJing)は哲学のためのものではなく、どうやって精神をリラックスさせ、人のために働き、永遠に生き、罪をなくし、すべての存在との調和をはかるかなどの方法を紹介している教科書のようなものだと、「明解・道徳経」の著者の孫俊清氏は述べています。
道徳経の中から、第一章の道(Dao)をご紹介します。
二つの解釈を載せます。解釈を読み比べたり、また共通する「道」の深遠を感じ取るのも良いかもしれません。
老子 道経(上篇)
第一章 道(Dao)
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
比兩者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。
道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。
故に常に無はもってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はもってその徼(きょう)を観(しめ)さんと欲す。
この両者は同出にして名を異(こと)にす。同じくこれを玄(げん)と謂(い)う。玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
解釈その1:意識と生命のある存在、宇宙を生む存在、道(Dao)に近づく道と方法、すべての問題を解決する道
道(Dao)は、誰もが話せるけれども、一般人が持っている考え方とは異なります。
一般の人たちは、どんなにいろいろな方法を考えても、決して人間の限界を超えることは出来ません。
が、道(Dao)の世界では、誰でも、道(Dao)に従うことによって、自らの力と価値を人間の限界以上に持つことが出来ます。
たとえば、手から気を出すことで、たくさんの病気を治すことや、人の不幸な運命を変えることが出来ます。
体の寿命を何千年以上にまで長く伸ばす可能性も、自らの気と力を天と地のように広げる可能性もあります。
もちろん、そのためにはいろいろなことを行わなければなりません。
このいろいろなことの内容を説明することはできますが、一般の人たちが考えているようなこととは異なります。
というのは、人間の学ぶ方法は、誰かが作った方法やシステムを学ぶことなのですが、道の学び方は、大自然にある天、太陽、地球、月、水、植物などを観察し、教材として学びます。
次に生命のある存在には、二つの種類があります。
これは、人間、動物、植物、惑星、恒星、宇宙という普通の物理的な存在と仙人、龍、鳳凰、道など物理的な体が気の状態に変化している存在です。
気の始まりは、物理的な存在がまだないことで、混沌という天地の始まりのようです。
これに対して、物理的な存在の始まりは、銀河系、太陽系、恒星、惑星などが生まれることで、万物の始まりのようです。
私は常に自分を気の状態に変化させて、道、宇宙の混沌、天地の始まり、気の世界などを観察します。
それと同じように、常に自分を物理的な体に変化させて、物理の世界の生き物が生まれてから死ぬまでの変化と原因を観察します。
気の世界と物理的な世界を、無と有という異なる言葉で説明しているけれども、これは一つの大きな世界の二つの側面のようで、お互いが繋がっています。
たとえば、生まれることは気の世界から物理的な世界に入ることであり、死ぬことは物理的な世界から気の世界に入ることです。
このような、気の世界から物理的な世界へ、物理的な世界から気の世界への変化は、無から有、有から無という変化であり、一つの存在の二つの状態、陰と陽の状態です。
普通、陽の状態は、生命と体を持っている時の状態で、陰の状態は、生命と体を持っていない時の状態です。
同じように、気の世界でも、陰と陽という二つの種類の気があります。
陽の気は、道(DAO)、宇宙、天地、恒星、惑星、植物、動物、人など体を持つ生き物からの気で、陰の気は霊体など死んだものが持っている気です。
陽の気は物事を変化させる力と、生きることの楽しさ、および穏やかさを持ち、陰の気は静けさだけを持ちます。
この二つの状態は、どちらも奥義の深い理(ことわり)を持っています。
しかし、道(Dao)の道の奥義の深さは、このような生から死、死から生への変化の奥義の深さより遥かに深く、奥義の深い世界の中での奥義の深い理を持っているようです。
というのは、道(Dao)の力によって、生と死の状態をコントロールすることや、変化させることが出来るからです。
ですから、道(Dao)の道は、誰にとっても、いろいろな精妙で不思議を行える入り口のようなものです。
「明解・道徳経」 (著 孫俊清)より
解釈その2
これが道だといえるような道は、本当の道ではない。
これが本当の言葉だといえるような言葉は、本当の言葉ではない。
天地が始まる前からある「道」は、名前を付ける前から存在し、
それは無限の領域であった。
天と地が生まれてから、すべてのものに名前というものが付きだした。
だから「道」はすべてのものの”母”ということになる。
人はなにかと名前を付けたがるが、名前を付けると、あれがいい、これがいいと、区別し、差別が始まる。
差別があると欲が生じ、欲が生じると、あからさまな争いがはじまる。
だが、考えてみれば、対立するものは、もともとは一つであり、名前のある世界だけに争いはあるんだ。
無欲になれば、それがわかるのだが、「道」は深遠すぎて普通の人には、わかりづらいだろう。
だから不思議なるもの、”玄”と呼ばれている。
宇宙の根源的なものだ。
その玄の働きですべてのものが育成されることから、玄の入り口を天地万物の門というのだ。
解説
「初めに言葉ありき」とキリスト教は言語と論理を説き、儒教は厳格なる秩序を標榜したが、老子はいきなり冒頭の1章で、言葉もなく、名前もなく、あらゆる秩序と明晰なるものを拒んで、暗くぼんやりとした混沌の世界を「道」だと説く。
いうなれば老子の「道」は、言葉を超えたところに実在する、無名の混沌であり、あらゆるものを産み出す万物の母なのである。
「新訳 老子」(著 岬龍一郎)