思いやりの自己犠牲から共生へ ・ 日本人が見落としている「よき思いやり」の可能性

正中心を生きる~思いやりの矛盾
「あっ、危ない!」と思った瞬間にさっと差し出された手のひらと、なんの見返りも求めずに去っていく後ろ姿は何年経っても忘れられない。自分が困っている時に、他人のさりげない優しさを受けると、人は自分だけでなく他人に生かされていることを痛感する。見返りを求めないさりげない優しさには、人を生かす力がある。
しかし、この一見美徳とも言える「思いやり」は、時に歪んだ形に変貌し、私たち自身を苦しめる鎖となることがある。これまで私たちが教えられてきた「思いやり」は、本当に人を幸せにするのだろうか? この問いから出発し、従来の「思いやり」の概念を再考し、より健全な人間関係を築くための「よき思いやり」の必要性を深く掘り下げていきたい。
1.従来の「思いやり」の限界・自己犠牲の罠
辞書を引くと、思いやりとは「他人の身の上や心情に心を配ること」と定義される。相手の気持ちを推し量り、想像力を働かせ、同情心を抱く。私たちは、このような思いやりを持って人に接することの大切さを教えられてきた。時には自分を犠牲にしてでも他人を優先し、相手を傷つけないように言葉を選び、嫌いな人にも丁寧に応対する。かわいそうな人がいれば、自分のことのように考え、助けようとする。どんなに辛くても笑顔でいることさえ、美徳とされてきた。
しかし、実際に“いい人”が思いやりを持って行動すればするほど、苦しい状況に置かれることも少なくない。人間関係が思っているようにうまくいかず、理不尽だと感じる出来事が自分の回りで頻繁に起こる。“いい人”はなかなか文句を言えず、苦しい状況に追い込まれやすい。“いい人”は人に頼られることも多々あり、それを嫌な顔せず、思いやりを持って相手のために行動し解決しようと努める。しかし、問題が解決しても、それほど相手に感謝されることはなく、再び困った人に頼られる。何回も人を助けているのに、結果的に良い思いをするのは、この頼ってくる人たちだけのようにすら見えてくる。自分は損な役回りをしているように思えてくるのだ。
「いつも仲良くしているママ友の子供を預かって夕飯を食べさせたら、それが当たり前になってしまって週に何回も頼まれるようになった。」「困っている部下を助けたら、いつしかそれが当然になって感謝の言葉もない。好き勝手な行動が増えて、自分はなめられている気がする。」このような状況は、決して他人事ではない。自己犠牲的な「思いやり」は、時に私たちを搾取される側に追い込み、人間関係を歪めてしまう。
良いことがおこらないばかりか、”いい人”に対する周囲の評価はそれほど高くない。そして周りには次々に問題がおこり、頭を悩ませる。なぜ自分を犠牲にするほど思いやりをもって行動しているのに、評価もされず問題はなくならないのだろうか?
2.「いい人」が見落としている3つの視点
“いい人”が陥りがちな状況を打破するためには、従来の「思いやり」の概念を疑い、見落としている視点に目を向ける必要がある。
① 自分を見失っている
人の気持ちを考えること、人の立場に立って考えることばかりしていると、いつしか自分の本当の気持ちを感じないようにしてしまう。そして、いつしか自分を見失ってしまうのだ。その結果、本心では苦手な相手であっても、自分を殺して相手に合わせるうちに、まるで相手の僕(しもべ)のような立場になってしまうことさえある。
自分を見失っている人は、思いやりを持とうと思っていない相手からすれば利用しやすい存在だ。自分に合わせてくれて、頼めばその通り行動してくれる人は、都合の良い人である。相手は“いい人”のことを自分の言うことを聞く人、都合が良い人と思い、結果として自分よりも格下の人間だと認識する。その結果、評価は下がる一方となる。思いやりを持つことを大切にした結果が、評価の低さにつながるなんてことは誰も教えてくれない。けれど、これが頻繁に起きている現実なのだ。
② 相手の気持ちが理解できていると思い込んでいる
思いやりとは、相手の気持ちを推し量ること、考えることだといわれるが、人は本当に相手の気持ちを理解できているのだろうか? 人は自分の経験を通してしか物事を見ることができない。困っている人を見て、いい人は同調してしまう。自分と相手との共通点を無意識に探して、自分を相手に置き換えている。つまり、相手に過去の自分の姿を見ているのだ。
あの時の辛かった自分、困っていた自分、助けてほしかったのに助けてもらえなかった自分を思い出し、そんな過去の自分を助けようと、本能的に行動してしまう。相手もそうに違いない。僕が(私が)助けてあげなくては、と。だが、これは自分の姿を相手に投影している行為であり、相手の気持ちを理解しているとは言えない。推察によって相手の気持ちを決めつけているに過ぎないのだ。
こう思っているに違いない、と相手の気持ちを決めつける行為は、実は相手を尊重していないことと同じであり、相手を自分と対等に扱っていないことと同じになってしまう。すると相手は、思いやりの行為に対して不快感を抱く。『放っておいてくれ。余計なおせっかいだ。』と。自分が尊重されていないことを微妙に感じ取ってしまうのだ。そして孤独感を深め、いい人に対して心を閉ざしてしまう。あるいは、いい人を都合よく利用しようとする。人の気持ちをわかっているつもりでも、人の本当の気持ちは誰にもわからないものなのだ。
③ 本音で生きていない
これは①と内容が重複する部分もあるが、人の気持ちを察し、人の立場にたって物事を考えていると、本音で生きることを忘れてしまう。嫌いな人に嫌だという態度をとれず、上司の理不尽な命令に文句も言えず逆らえず、困っている人の要望も断れず…。まるで波の中をクルクルと漂う枯れ葉のようだ。自分以外の人の要望にばかり応えようとすると、人のわがままに振り回されてしまう。続けているうちに、どれが自分の本音なのかすらわからなくなる。
自分という中心からずれて、自分が正しいと思うことを他人に伝えられない人は、発信力が弱く、”人のいいなりな人”、”仕事を任せられない人”、”頼りない人”と思われる原因になる。わがままな人の方が、なぜか評価が高く、周囲の人たちにチヤホヤされているのは、わがままな人の方が、自分の中心に近い場所で言葉を発していて、発信力が強いからだ。
3.「悪しき思いやり」と「よき思いやり」・二つの方向性
以上の考察から、思いやりには2種類あることがわかる。一つ目は、そのようにしなさいと教育されてきた「悪しき思いやり」だ。今までの教育で教えられてきた思いやりは、この悪しき思いやりである。道徳的に考えなくてはいけない、困っている人は助けなくてはいけない、誰に対してもいつも優しくしなくてはいけない、自分より他人を尊重しましょう、という日本人が美徳とする思いやりである。このような思いやりの行動をとると、自分も相手も不幸になるという負のジレンマに陥りやすくなる。
一方、「よき思いやり」とは、人を生かし応援する力を持つ。それは、自己犠牲の上に成り立つものではなく、自己肯定感を基盤とした、相互尊重に基づくものだ。
4.「よき思いやり」の具体的な実践・自己肯定感と境界線
では、具体的に「よき思いやり」を実践するにはどうすれば良いのだろうか? 重要なのは、以下の2つの要素を意識することだ。
① 自己肯定感を高める
まずは、自分の感情や欲求を大切にすることから始めよう。自分が何をしたいのか、何を感じているのかを意識的に把握し、それを尊重する。嫌なことは嫌だと、自分の意見を正直に表現することも大切だ。自己肯定感を高めるためには、自分を褒める習慣を身につけたり、自分の好きなことや得意なことに時間を使ったりすることも有効だ。
② 境界線を明確にする
他人の問題に過度に介入せず、自分の時間やエネルギーを守ることも重要だ。困っている人を助けることは大切だが、自分のキャパシティを超えて無理をすると、最終的には自分自身が疲弊してしまう。相手の状況を理解しつつも、自分の限界を認識し、できる範囲でサポートすることを心がけよう。NOと言う勇気を持ち、他人の要求に振り回されないことも大切だ。
「よき思いやり」は、決して冷たい態度をとることではない。相手の気持ちに寄り添いつつも、客観的な視点を持ち、感情に流されないことも重要だ。相手が自立できるよう、助言やサポートはするが、問題を代わりに解決しない。相手の成長を促し、自信を持たせるような関わり方を心がけることが、「よき思いやり」の本質だ。
5.「よき思いやり」がもたらす未来・共生の人間関係
「悪しき思いやり」から脱却し、「よき思いやり」を実践することで、私たちはより健全で豊かな人間関係を築くことができる。自己犠牲の上に成り立つ関係ではなく、相互尊重に基づいた、共生の人間関係を築くことができるのだ。
「よき思いやり」は、単なる優しさではなく、知性と勇気を必要とする行動である。相手と良好な関係を築きながら、自分自身も大切にするためには、これらの要素を意識し、バランスの取れた行動を心がけることが重要だ。「よき思いやり」を育むことで、私たちは自分自身を幸せにし、周囲の人々にも幸福をもたらすことができるだろう。
まとめ
日本人がこれまで美徳としてきた「思いやり」は、時に自己犠牲を強いる「悪しき思いやり」へと変貌し、私たちを苦しめる鎖となることがある。
しかし、「思いやり」は、本来、人を生かし応援する力を持つ。「よき思いやり」は、自己肯定感を基盤とし、相互尊重に基づいた、共生の人間関係を築くための鍵となる。
私たちは、「よき思いやり」を育むことで、自分自身を幸せにし、周囲の人々にも幸福をもたらすことができるだろう。自己犠牲から共生へ。「思いやり」の再定義は、私たち自身の幸福だけでなく、社会全体の幸福へと繋がる道標となるはずだ。