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非暴力を訴えたキング牧師
ジョージ・フロイド事件後も起きましたが、人種問題の事件が引き金となり暴動につながることがあります。
しかし、暴力に対して暴力で訴えること、憎悪に憎悪で返すことは問題の解決につながらない、と1950年代に非暴力を訴えたのがキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・Jr)でした。
キング牧師は、黒人だけでなく他のマイノリティーや白人の共感すらをも得る数々の名演説を行い、1964年ノーベル平和賞を受賞しました。
なかでも「I Have a Dream」から始まる演説が有名です。
キング牧師が唱えた非暴力による公民権運動が、その後の黒人の発展をもたらしたことは否定できない事実です。
そしてこれは現代でも通じる方法です。
(以下、「キング牧師とマルコムX」著 上坂 昇 講談社現代新書 から引用しています。)
二人の天才的指導者による公民権運動
マルコムX
天才的指導者であるマルコムXとキング牧師は、それぞれの理念に基づいて公民権運動に貢献しました。
二人の理念は対照的で、マルコムXは「私は自衛のための暴力を暴力とは呼ばない。知性と呼ぶ」と話しました。
マルコムの父親はバプティストの牧師であり、マーカス・ガーベイが創立した国際黒人地位改善協会(UNIA)の熱心な活動家でもありました。
ガーベイはブラックナショナリズム(黒人民族主義)の始祖と言われ、白人の人種偏見は、いくら白人の正義感、アメリカ民主主義原理に訴えても、けっしてなくならないので、黒人はアフリカに帰ろうという運動を起こしました。
また、黒人にその人種のプライドを取り戻させるために、「ブラック・イズ・ビューティフル」(黒は美しい)と訴えました。
この運動は1920年代に盛んになり、600万人もの支持者がいたとされ、歴史上初めての黒人の大衆運動でした。
この運動自体は奇しくもKKKに友好的に迎えられました。
アメリカにおける権利を放棄して、アフリカに帰るという黒人は大歓迎されたのでした。
このUNIAの活動家であったマルコムの最愛の父親を白人の暴行で失い、警察には自殺だと事実を隠蔽され、保険料は支払われず、母親は精神病院に入院させられました。
その後、ニューヨークでギャングまがいの裏ビジネスをしていたマルコムは、21歳の時、強盗犯となり逮捕され、刑務所に入ります。
そこで知り合った囚人から、暇なときには通信教育や図書館で勉強するように勧められ、英語の通信教育を始めラテン語の通信教育も始めます。
刑務所内で行われる討論会に毎週のように参加し、話術や知性を研鑽しました。
さらに睡眠時間を削って、毎夜3時くらいまであらゆる分野の本を読み、筆跡を改善するために刑務所図書館の全辞書を筆写し、哲学書・思想書・法律書・文学も丸写ししたのでした。
消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、2.0あった視力が0.2まで落ち、後にトレードマークとなるサーモント型の近眼鏡を使用するようになりました。
そうして勉強するうちに、ネイション・オブ・イスラム(NOI)の教義を裏付け、マルコムの兄、姉、弟が信じるようになったイスラム教に改宗します。
出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から『一流の大学を卒業しているのだろう』と勝手に推測されるようになります。
そして「出身大学はどこか」と訊ねられた時には「刑務所内の図書館だ。」と答えたのでした。
ここにブラック・モスレム、マルコムXが誕生したのです。
本名のラストネーム”リトル”は白人の奴隷所有者に押し付けられた名前であり、Xはこれにとってかわるもので、Xとは永久にわからない自分の祖先のアフリカ名の象徴である、と宗教指導者ムハンマドにもらった名前でした。
ブラック・モスレムの思想は、イスラム教本来のものとは異なり、黒人の優越を強調し、白人を排斥するブラック・ナショナリズムに基づくものでした。
ネイション・オブ・イスラムの創設者、W・D・ファードは街角の黒人たちに次のように訴えました。
「世界の支配権を握った白人は、アフリカの黒人を奴隷としてアメリカに持ち込んだ。
黒人から言葉や文化を奪い、洗脳して白人優越を信じ込ませた。そうして400年間、白人のつくった地獄に追いやられていた。
いまこそこうした状況から脱出して、アメリカ国内に黒人だけのパラダイスを建設するのだ。」と。
キング牧師
一方、キング牧師は徹底した非暴力主義のもとに運動を展開しました。
弱冠26歳でモンゴメリ・バス・ボイコットを成功させたキング牧師。
大衆集会で演説したそのスピーチには、キリスト教の愛に基づいた非暴力の原則がすでに打ち出されていました。
闘争のなかで暴力を行使することは、非実際的であるばかりでなく非道徳的であるだろうという点を私は強調した。
憎悪にむくいるに憎悪をもってなすことは、いたずらに宇宙における悪の存在を強めるにすぎないだろう。
憎悪は憎悪をうみ、頑迷はますます大きな頑迷をうみだす。
私たちは憎悪の力にたいしては愛の力をもって、物質的な力にたいしては精神の力をもって応じねばならない。
私たちの目的は、決して白人をうちまかしたり侮辱したりすることではなく、彼らの友情と理解をかちとることでなくてはならない。
愛こそが行動の基準であるとし、イエスの言葉である『汝の敵を愛せよ。汝を貶める者を祝福せよ。汝を虐げる者のために祈れ。』を運動の精神とし、「いかに不当な扱いを受けようとも、そのために白人を恨んだり憎んではいけない」と訴えました。
キング牧師の演説に、聴衆は拍手喝采で応えたのでした。
こうしたキング牧師の非暴力による公民権運動は、あのインドのマハトマ・ガンディから受けた強い影響がありました。
キング牧師の生い立ち
マーティン(のちのキング牧師)の父親(マイケル・ルーサー・キング・シニア)は、ジョージア州アトランタの教会の牧師を努め、街の有力者でもありました。
幼いころより聖書の一字一句を生活の規則とされる家庭に育ったマーティンは大変優秀な子供でした。
しかし豊かな中産階級の家庭で育ちながらも、人種差別を経験します。
両親からは「差別されても白人を愛さなければならない。それがクリスチャンの義務だ」と忠告されますが、黒人を憎む白人をどうして愛することができるのか、と幼いマーティンは疑問を抱きます。
成績が優秀だったマーティンは15歳で飛び級で大学に入学し、在学中に北部のコネティカット州のたばこ農場でアルバイトを経験します。
北部では人種分離されていない映画館やレストランで白人と同じように映画を観たり、食事することができる自由を経験しますが、南部に戻る列車の中では屈辱的な差別を経験します。
その後マーティンは自分が通う大学のメイズ学長の影響で牧師になろうと決意したのでした。
黒人牧師の多くは、信者に対して「この世の矛盾や苦しみは気にせず、天国での平和や自由、幸福を考えろ」と説教していました。
しかし、メイズ学長の考えは、「教会はもっと社会の改革や黒人の生活改善のために活動すべきだ」というものでした。
そして「牧師は信者の抱えている貧困、飢え、偏見などの社会問題にも手を貸すことができるし、理性や思想に訴える方法もあるのだ」と教えられます。
これに大いに感化され、宗教を考え直し牧師を志します。
その後白人と黒人の共学である、アメリカでも最高レベルの神学校に入学し、白人の若い人々のなかに多くの味方がいることを知り、親しくなるにつれ、彼らに対する怒りや怨みも和らいでいきました。
一部の白人の持っている黒人に対する優しさをすべて否定してしまうことは、自分自身が人種差別主義者と同じになることに気づいたからでした。