東京の守護神・平将門~他に類を見ないほど強力な”陰”のパワースポット~②

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将門塚・経済の中心に眠る異次元の聖域

東京の中心、大手町。高層ビルが林立し、日本の経済を牽引する心臓部とも言えるこの場所に、ひっそりと静寂を湛える空間、それが「将門塚」です。読売新聞東京本社、メガバンクの威容、そして経済界を代表する経団連会館が立ち並ぶ、まさに経済活動の最前線に位置しながら、その一角だけが切り取られたかのように、緑に囲まれた異質な空間を形成しています。

外から見ると、そこは都会の喧騒を忘れさせてくれる、一時の安らぎを与えるオアシスのようです。しかし、将門塚は単なる憩いの場ではありません。毎年9月22日には、この地の静寂を破り、周辺に拠点を置く大企業の幹部たちが集まり、慰霊祭が厳かに執り行われます。それは、将門塚が、平安時代の昔から祟り神として人々に畏怖されてきた場所であることの証左に他なりません。

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静謐と強烈なパワー、二つの顔を持つ首塚

一見すると、歴史の深さを感じさせるものの、おどろおどろしい雰囲気は微塵も感じられません。しかし、足を踏み入れた瞬間、空気が明らかに変わるのを感じます。そこは、清らかで繊細な気に満ち溢れた、まさに聖域と呼ぶにふさわしい空間です。心がふっと軽くなり、まるで全身が浄化されたかのような、不思議な感覚に包まれます。

訪れる参拝客は絶えることなく、静かに手を合わせ、足早に立ち去る姿が多く見られます。その様子から、この場所を日頃から大切にしている常連の参拝客も多いことが伺えます。首塚の前に立つと、理由はなく、自然と頭が垂れる気持ちになります。

そして、正面にそびえ立つ石碑の裏、ひっそりと鎮座する首塚からは、言葉では表現しきれないほどの強烈なパワーが放たれているのを感じます。まるで強力な磁石のように、有無を言わせず強く引き寄せられるような、圧倒的なエネルギーに満ち溢れているのです。

しかし、今もなお、不敬な気持ちで首塚を訪れると、想像を絶する恐ろしい体験をすると伝えられています。これほど清らかで穏やかな空気が漂う空間でありながら、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?その謎を解き明かすため、平将門に関する歴史を改めて振り返り、将門塚が建立された経緯を紐解いてみましょう。

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平将門・桓武天皇の血を引く、伝説の武将

(月岡芳年≪芳年武者无類 相模次郎平将門≫)

平将門は、平安時代中期に活躍した武将であり、源平合戦で活躍した平清盛よりも遥か昔、約180年前にその名を轟かせた人物です。平家と言えば、平清盛を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、将門公の血筋を遡れば、天皇家の血を引く、由緒正しき家柄の出であることがわかります。

将門記・史料から読み解く、将門公の壮絶な足跡

平将門について知る上で欠かせない貴重な史料の一つに「将門記」があります。この史料を丹念に読み解き、将門公の壮絶な足跡を辿ってみましょう。

(第50代 桓武天皇)

平安時代中期、藤原氏が朝廷の実権を掌握する「摂関政治」が隆盛を極め、平安京を中心に華やかな国風文化が爛漫と花開きました。しかし、都から遠く離れた地方では、「武士」という新たな勢力が台頭し、各地で血なまぐさい戦乱が絶え間なく繰り広げられていました。

桓武天皇

源氏と平氏、後の世に武家の棟梁としてその名を轟かせることになる二つの勢力が、まだ歴史の表舞台に登場する以前の時代です。源氏には清和天皇の血を引く「清和源氏」、平家には桓武天皇の血を引く「桓武平氏」という二つの系統が存在していました。

桓武平氏は、桓武天皇の第三皇子である葛原親王を祖とする分家であり、葛原親王の息子である高望王が、武士としての桓武平氏の礎を築きます。そして、その高望王の孫こそが、他ならぬ平将門なのです。

つまり、将門公は皇族の血を引く高貴な人物だったのです。父である平良持は、陸奥鎮守府将軍という、当時の武士にとって最高の名誉職に就いていました。

しかし、伯父である平良兼と将門の関係は次第に悪化し、ついには合戦に発展してしまいます。さらに、平真樹に誘われ、平国香や源護といった勢力とも戦わざるを得なくなります。その原因は、父親から相続した土地の一部を、伯父たちが勝手に横取りしたことに端を発していると言われています。

将門公は、類まれなる武勇の持ち主であり、数々の合戦で見事な勝利を収めます。その勇猛果敢な戦いぶりは、瞬く間に人々の間で語り草となり、その名を広く知らしめることになります。

関東の英雄・民衆を救い、理想を追い求めた将門公

約1000年前、藤原氏が権勢を誇っていた時代、関東地方は「東夷(あずまえびす)」と呼ばれ、都の人々から蔑まれていました。自らの土地であるにも関わらず、政治を行うことを許されず、常に朝廷の支配下に置かれていたのです。

将門公

しかし、関東に住む武士たちは、優れた戦闘能力を持っており、中央政府に対して強い不満を抱いていました。そんな中、下総(現在の千葉県)の豪族である平将門が、ついに立ち上がります。中央の統治に不満を抱く武士たちの協力を得て、将門は常陸・上野・下野を占拠し、東国全域の支配権を掌握することに成功します。

将門公は、非常に民主的な人物だったと言われています。その証拠に、彼は支配下の民衆の声に真摯に耳を傾け、政治に反映させようと努めたと言われています。

また、将門公は巫女から、驚くべき神託を受けます。「応神天皇の化身である八幡大菩薩の使いが、新皇の位を将門に授ける。その位は、菅原道真の霊が取り次いで与える」というのです。

菅原道真は、右大臣という要職にまで上り詰めたにも関わらず、政敵の陰謀によって九州の大宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった悲劇の人物です。死後、怨霊となって朝廷を震撼させたと伝えられています。

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(菅原道真)

その菅原道真に代わり、朝廷への恨みを晴らすべく、将門公に新皇の位を授けるというのです。

偶然にも、将門公が生まれた903年は、ちょうど道真が亡くなった年でした。そのため、将門公は道真公の生まれ変わりであると告げられたのです。この神託を知った朝廷は、激しい恐怖に襲われたことでしょう。

しかし、天皇を差し置いて自らを新しい天皇「新皇」と名乗る将門公を、朝廷が黙って見過ごすはずがありません。

そのため、朝廷はあらゆる手段を講じ、将門公を鎮圧しようとします。九州の宇佐八幡宮、奈良の東大寺、京都の醍醐寺、大阪の住吉大社、千葉の新勝寺など、全国の有力寺社に将門公調伏の祈祷を命じます。神霊的な手法を用いて、将門公を鎮圧しようとしたのです。

天皇をはじめ、朝廷の官僚、僧侶、神官たちが、神仏に祈りを捧げました。また、将門の名を記したお札を炎の中に投げ込み、人形を木に吊るすという、おぞましい将門公滅亡の呪術を行ったのです。

同時に、朝廷は鎮圧軍を編成し、将門討伐の命を下します。討伐軍には、同じ東国出身の武士である平貞盛、藤原秀郷らが任命されます。

940年、将門公はついに藤原秀郷によって討ち取られます。朝廷軍の放った矢が将門公の片目を貫き、落馬したところを藤原秀郷に首をはねられたのです。平将門が自らを新皇と称してから、わずか2か月後の出来事でした。

(平将門を討ち取った藤原秀郷)

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Shokey Hayashi
Shokey Hayashi
エクソシスト/ラジオニクス技法研究家
1965年、青森県に生まれ 幼少期から霊的な現象によるトラブルや病気、怪我に悩まされてきた。しかし、20歳のある日、イベント参加、会場で不思議体験、天からの稲妻エネルギーが降り注ぎ、脳から脊髄を貫くような衝撃を受け、霊能力が開花。その後、心理学と超能力の研究をスタート、現在は、霊能力と意識工学を融合させた。独自のラジオニクス技法をにて「ラジオニクス除霊」を確立。除霊、供養、癒しを超えた「運気の治療まで可能となる」
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