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将門信仰の象徴的神社
築土神社
(東京都千代田区九段北1-14-21 九段下駅1番出口より徒歩1分)
津久戸大明神には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。(築土神社公式ページ)
※江戸時代には「神社」ではなく「(大)明神」や「(大)権現」の社号を掲げるのが一般的で、築土神社も、江戸時代当時は「津久戸大明神」ないし「築土明神」の社号を用いていました。(明治7年に「築土神社」に改号)
現在の築土神社はビルの一部になっていますが、もともとは非常に広大な境内を持つ神社でした。(江戸名所図解より。下図の右手の社屋が築土八幡社、左手が築土明神社。)
神社の歴史
940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り(※)、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりです。
※新宿区筑土八幡町にはかつて氏子総代をつとめた旧家があり、平安時代に京都でさらされていた平将門の首級を密かに奪い取って持ち帰った者の子孫であったと言い伝えられていたといいます。
江戸城を築城した太田道灌が社殿を築き、太田家の守護神、江戸城の守護神としました。
その後、江戸城の拡張や江戸城外堀拡張による移動を繰り返し、1616年に新宿区築土八幡町に移動します。
さらに九段中学校建設のため再び立ち退きを余儀なくされ、世継稲荷神社の敷地内へ移転し、新社殿を建設。
1994年、社殿老朽化に伴い、コンクリート壁の現代的な神社となりました。
九曜紋
拝殿上部には、平将門の家紋である九曜紋を見ることができます。妙見大菩薩を崇敬していた平将門の家紋は九曜紋です。以前取り上げた伊豆山神社の社紋もこの九曜紋です。
本来の九曜紋は中心の円を囲むように九つの円が配されています。(下図)
しかし、妙見様の御本霊と一緒では畏れ多いという畏敬の念から、三光紋を変形・回転させたり九曜紋の周りの星を減じたりして、元とは異なる形の紋を分家の家紋として用いました。これゆえ中央一つ・周り八つ・合計九つの星の紋が「九曜紋」として広く用いられ、現代でも広く伝わっています。(千葉神社公式ページより)
中央の大きな星の周りに九つの小さな星が配されているため、「十曜紋(じゅうようもん)」と呼ばれることもあります。
この紋は、中央の妙見様(=北極星)の差配する星々が周囲にあるとされ、九つの星の意味には三つの説が伝わっています。
第一の説は、妙見様が乗って空を巡回する乗り物と考えられていた北斗七星の七つと、太陽・月の二大天体を加えて九つの星とする説。
第二の説は、古代の占星術・易学において九つに分類される日曜星・月曜星・火曜星・水曜星・木曜星・金曜星・土曜星・計都星(けいとせい)・羅喉星(らごうせい)であるという説。
第三の説は、九星気学で定められる人間の運命星(一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星)であるという説です。(千葉神社公式ページより)
13世紀後半から14世紀前半に成立された『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』には、将門公が妙見信仰をすることになった不思議なエピソードが記載されています。
平将門は妙見大菩薩を崇拝した (源平闘諍録)
将門が伯父である良兼と合戦を行っていたところ、良兼は多勢であったが将門は無勢で、岸に追い詰められていたところの話です。
橋もなく、船もなく窮していると突然小さな子供が出てきて「瀬を渡そう」と告げました
将門はこれを聞いて蚕銀河を渡り、豊田群を超え、河を隔てて戦っていましたが、将門の矢が尽きると、その子供が落ちた矢を拾い、将門に与えこれを射ました。
また将門が疲れたときには、子供が将門の弓をとって十の矢をまっすぐにして射ましたが、全て当たるのでした。
これを見て将門と敵対していた伯父である良兼は『ただごとではない。天の計らいである』と退却しました。
将門は勝利を得て、子供の前にひざまずき、袖をかき合わせて『そもそも君はいかなる人でいらっしゃいますか』とたずねると、
その子供は『われは妙見菩薩なり。昔から今に至るまで、心は勇猛で慈悲が深く正直な者を守ろうという誓いがあった。
そなたは正しく直く勇敢で剛の者であるがゆえに、そなたを守るために来臨したのである。われは上野の花園という寺にいる。
そなたにもし志があるならば、速やかにわれを迎え取るべきである。われは十一面観音の仮の姿であって、五星の中では北辰三光天子である。
そなたは東北の角に向かって、わが名号を唱えよ。今後、将門の旗印は千九曜の旗をかかげよ』と言い残して消えました。
そうして将門は使者を花園に遣わせて迎え、信心をして崇敬しました。
築土神社 ご祭神
相殿(あいどの): 平将門公、菅原道真公
平将門と皇国史観
将門公は、死後、東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)の影響もあり、将門公を天皇に反抗した「逆賊」のように評する風潮も一部に見受けられた。そのため、築土神社では便宜上、「天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」を勧請してこれを「主神(しゅしん)」とし、他方で将門公は「相殿神」とされることとなった。
1960年(昭和35年)、築土神社は一般頒布用に『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』を発行しているが、同書では、「御祭神」として記されているのは「天津彦火邇々杵尊」のみで、なぜか「将門」については一切言及されていない。
おそらくこれには、旧体制下の皇国主義に対する一定の配慮があったものと考えられる。
明治5年3月、明治政府は宗教行政全般を掌握すべく教部省を設立し、全国の神社を統括・指揮した(但し、教部省の事務は全て明治10年1月に内務省の部局に承継されている)。
当時、政府は天皇復権・神道優位を推進し、同時に、いわゆる「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)の影響もあり、将門を天皇に反抗した「逆賊」と評するような風潮も一部に見られるようになった。
そこで明治7年、築土神社では便宜上、将門を主神からはずし、天皇系統と関わりの深い「天津彦火邇々杵尊」を新たに勧請することで、以後、表向きは将門との関係を希釈化したのである。
その後、昭和21年に日本国憲法が制定され政教分離が確立。神社は国の管理から解放された。もっとも戦前の皇国主義は完全に払拭されたわけではなく、将門を祭神とすることには依然抵抗があったものと思われる。上記『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』の記述をみても、少なくとも戦後十数年間は将門を祭神として掲げることに慎重で、依然、築土神社は将門と無関係の神社であることを装っていたことが伺える。
築土神社が将門を祀る神社であることを再び公言するのは、鎮座1050年を記念し御由緒を発行した平成2年のことである。ここでも「主神(しゅしん)」はあくまで「天津彦火邇々杵尊」のままで、将門は未だ「相殿神(あいどののかみ)」にすぎないが、それでも同由緒に「将門」の名を明記したことは画期的であったといえる。(築土神社公式ページ)
社殿前の狛犬
1780年(安永9年)元飯田町の氏子により奉納されもので、一方の頭上には「角」、もう一方には「宝珠」が付けられています。
現在千代田区内に現存する狛犬の中では最も古いものであり、平成8年に千代田区有形文化財に指定されています。
社殿
現在の築土神社の社殿は、※住吉造のようでありますが、一部に神明造風の構造を取り入れた独特の様相を呈しており、住吉造と神明造の融合型です。
※住吉造
住吉大社に代表される住吉造の特徴として、破風は古式の直線形であり、大嘗祭の際に造られる建物と似ていることが指摘されています。伊勢神宮に代表される神明造や出雲大社に代表される大社造と共に、神社建築の最古の様式とされます。
築土神社の開運のパワー
平将門公ゆかりの神社である築土神社は、非常に力強いパワーが満ちていて、張りつめた緊張感が感じられます。
築土神社を訪れたならば、この独特の力を感じられると思います。(首塚の真実については、メルマガでお伝えします。)
武勇長久・勝運向上
将門公は関東にて戦場を縦横無尽に駆け巡り、多くの勝利を収めました。そしてその死後は、関東の英雄 ・武道の神様として崇められ、現在でも、「武道の殿堂」といわれる日本武道館(千代田区北の丸公園)の氏神(うじがみ)として、築土神社の本殿に鎮座しています。(築土神社公式ページ)
必勝祈願のお守り、勝守(かちまもり)が人気です。(正月限定販売)
築土神社の御祭神である平将門公は戦場で黒馬を縦横無尽に駆使し、多くの勝利を収めたと云われる。
この「勝守(かちまもり)」はそんな将門公の黒馬にあやかった築土神社独自のお守りで、毎年1月1日から1月15日までの十五日間のみ民衆に授与されてきたものである。(築土神社公式ページより)
勝守の台紙掲載の黒馬