Views: 311
エルサレムのアイヒマン
公民権運動のリーダー、キング牧師とマルコムXについてお伝えし、寄り道をしましたが、ハンナ・アーレントに話を戻します。
ナチスによる迫害を逃れ、難民として渡米したのち「全体主義の起源」を刊行したアーレントは、カリフォルニア大学、プリンストン大学、コロンビア大学で客員教授を務め、学者としての足場を固めました。
さらに1960年代に入ると、広くその名を知られるようになりました。
そのきっかけとなったのが、アーレントが裁判を傍聴した記録「エルサレムのアイヒマン」でした。
1942年のアイヒマン親衛隊中佐
第二次世界大戦時、アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊の中佐でした。
アイヒマンはユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所にユダヤ人を移送し、管理する部門で実務を仕切っていました。
数百万人のユダヤ人を移送したとされます。
他の幹部らはすでに国際軍事法廷で裁かれ、死刑に処されていましたが、アイヒマンは家族と共にアルゼンチンに逃げ延びていました。
1960年代初頭イスラエルの秘密警察モサドによって拘束されます。
その翌年、エルサレムで裁判が行われることになり、ユダヤ人である女性哲学者ハンナ・アーレントは傍聴を志願します。
それは『ザ・ニューヨーカー誌』に掲載する記事を書くためでした。それが『エルサレムのアイヒマン』です。
今でもアイヒマン裁判の様子は映像で残っているので、誰でも観ることができます。
映画『ハンナ・アーレント』にも登場します。
ナチス親衛隊の将校というイメージから、アイヒマンは冷徹な人相をしている屈強な男性を想像していましたが、予想は見事に裏切られました。
細身で小柄、眼鏡をかけ、神経質そうな表情をしている普通の中年男性という外見でした。
浮かび上がってくるアイヒマンの素顔は、狂信的反ユダヤ主義者ではなく、ナチス党で出世したいという出世欲が強い一人の役人でした。
そのためヒトラーの命令を、“絶対的な法律”として遵守したのでした。
ユダヤ人大量虐殺に加担していたこの将校は「悪魔のような人間」でも、「ヒトラーの狂信的信者」でも、「ユダヤ人を憎んでいる」のでもない、ごく普通の一般的な人間だったのです。
その様子を、アーレントは“悪の凡庸”と記事に掲載しました。
どこにでもいそうなごく普通の人間だった、という意味です。
「若いころからあまり将来の見込みのありそうもない凡人で、自分で道を拓くというよりも何かの組織に入ることを好むタイプ。
組織内での自分の昇進にはおそろしく熱心だった。」とづづっています。
この裁判レポートが『ザ・ニューヨーカー誌』に掲載されました。
すると、「アイヒマンを擁護している」、「こんな記事を載せるんじゃない」などたくさんの批判を多く受け、勤務していた大学からも辞職してほしいと伝えられます。
が、ハンナは「絶対に辞めません」と告げ、学生たちへの講義という形で反論を試みます。
映画『ハンナ・アーレント』より
ハンナは学生たちに次のように語りかけました。
「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。
彼は検察に反論しました。
『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。
世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。
(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです。
アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。
思考する能力です。
その結果、モラルまで判断不能となった。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。
危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように。」
ハンナ・アーレント
思考停止状態によってもたらされた大量虐殺
人類史上に残る大量虐殺という大罪を犯した人間が、平凡などこにでもいる人間だったということは、むしろ恐ろしいことだという問いを投げ掛けました。
それは、普通の人間が、アイヒマンと同じ状況に置かれれば、同じことをする可能性があることを意味するからです。
思考できなくなることで、多くの人が加害者になりうる可能性があることを、
思考停止状態で、自分の良心の声に耳を閉ざして行動することは、このアイヒマンと同じ行動になることを伝えたのでした。
その結果、アーレントは、正義か悪かの単純な判断に固執した多くの人を敵に回しました。
私たちの身の回りにおいても様々な暴力は起きています。
自分から行動を起こすことはなくても、
自分より強い立場の人物にそうしろと命令されたから。
みんながそうしているから。
自分だけ仲間外れになりたくないから。
自分で思考したり、良心の声に耳を傾けることなく、悪事に加担することがたびたび起こります。
しかしどこまで極限状態だったとしても、良心を失ってはならないと、常に自問自答を繰り返すことが大切だとアーレントは伝えています。
裁判から一年後、アイヒマンは有罪、死刑判決を受け、絞首刑に処されました。
一番欺くことができないのは自分自身です。
自分がしていることを全て、自分は知っています。
他人にバレていないから大丈夫だろうと上手く隠せているつもりでも、自分はだませません。
そこから逃れることは誰にもできないのです。
そして自分が蒔いた種を刈り取らなくてはならない時が必ず訪れます。
罪悪感から逃れられずに、自分の良心が自分自身を裁くという結果をつくるのです。