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東京の守護神・平将門~他に類を見ないほど強力な”陰”のパワースポット~②

  • 2019年10月9日

将門塚

【経済の中心地に現れる異次元の世界】

東京の中心である皇居の大手門からほど近く、ビル群に囲まれた一角に将門塚はあります。読売新聞東京本社やメガバンクや地方銀行の東京支店、経団連会館などが立ち並ぶ、まさに日本経済の中心地とも言える場所です。

緑に囲まれた将門塚の一角は、外から見ると小さな憩いの地のように見えます。

毎年、9月22日には周辺の大企業の幹部が集まり、慰霊祭が行われるといいます。

それは、首塚が平安時代の昔から祟る場所として知られているからです。

様々な噂がある首塚ですが、外から見るとおどろおどろしい雰囲気は皆無です。

そして一歩足を踏み入れると、非常に清らかな空間で不穏な気配は一切感じられません。むしろ聖地に足を踏み入れた時のように、繊細で静かな気に満ちています。心も体も軽やかになります。

参拝客は多くはありませんが、それでも途切れることなく訪れています。

首塚の前で静かに手を合わせ、さっと帰る姿から、たびたび参拝されている方も多いことがわかります。

首塚の前に立つと、ただ自然と頭を垂れる気持ちが沸き上がります。

が、この正面の石碑の裏にある首塚の方からは凄まじいパワーが感じられます。磁石のように引き寄せられる力です。

今でも不敬の念を持って首塚を訪れると、非常に怖い思いをすると言われています。これほど清らかな空間であるのに、一体どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?

平将門に関する歴史やこの場所に首塚が建った経緯をあらためて調べてみました。

【平将門】

(月岡芳年≪芳年武者无類 相模次郎平将門≫)

言わずと知れた、平安時代の武将です。

平家と言えば、源平合戦の平清盛を思い出す方も多いと思いますが、平将門が亡くなって178年後に平清盛が誕生しています。今(2019年)に置き換えると、平清盛にとって平将門は1840年頃に存在したご先祖様ということになります。黒船来航が1853年ですから、かなりの昔です。それほど将門公と清盛公には時代の隔たりがあります。

【将門記】

平将門に関する資料の一つに「将門記」があります。(1905年(明治38年)、大須本院真福寺に保存されていた「将門記」は国指定重要文化財に指定されています。)

そこから将門公の足跡をたどってみます。

(第50代 桓武天皇)

 

平安時代中期、藤原氏が朝廷の高官となる「摂関政治」が始まった頃、平安京を中心に国風文化が華やかに開く時代の気運が広まりました。一方、地方では「武士」という存在が誕生し始め、血なまぐさい戦乱を起こしつつありました。

まだ功名は挙げていませんでしたが、武家の二大勢力である源氏と平氏が存在しました。

源氏には第56代清和天皇の孫を創始とする「清和源氏」、平家には「桓武平氏」という系統がありました。

桓武平氏は、第50代桓武天皇、通称「天國押撥御宇柏原天皇(あめくにのおしはるきあめのしたしろしめすかしわばらのてんのう)」の第三皇子である葛原親王から始まった庶流(分家)の総称です。

葛原親王には三人の子息がおり、三男の高見王は皇族としての道を選びます。その息子の高望王は「武家」としての桓武平氏の起こりとなります。この高望王の孫が平将門です

つまり、将門公は皇族の血筋でありました。

父親の平良持は、陸奥鎮守府将軍で、当時の武家としては最高の栄誉職です。

しかし、伯父である平良兼と将門は関係が悪化し合戦をします。さらに平真樹(たいらまさき)に誘われ、平国香ならびに源護(みなもとのまもる)と合戦をしました。

理由は、父親の遺産相続した土地の一部を、伯父達が勝手に横取りしたからだと言われています。

将門公はめっぽう強く合戦はことごとく勝利します。

約1000年前の藤原氏全盛の頃は、関東は「東夷(あずまえびす)」と呼ばれ、関東人は荒々しい田舎者だとさげすまれていました。自らの土地であるにも関わらず統治することを許されず、常に朝廷の支配下にありました。

しかし、土着の侍たちは戦闘能力に非常に優れており、そこで決起したのが下総(千葉県)の豪族で、桓武天皇の血をひく平将門だったのです。

中央による統治に不満を抱く侍たちの協力によって、将門は常陸・上野・下野を占拠し、東国全域における支配権を奪い取りました。

将門公は非常に民主的であったと言われます。

また、将門公は一人の昌伎(巫女)に「応神天皇の化身八幡大菩薩の使いが新皇の位を将門に授ける。その位は、菅原道真の霊が取り次いで与える」と告げられました。

菅原道真は右大臣になったにも関わらず、陰謀によって九州大宰府に左遷され、失意のまま亡くなり、後に怨霊となって朝廷を震撼させたと言われる人物です。

(菅原道真)

その菅原道真になりかわって、朝廷への仇を討つべく、将門公に新皇の位を授けたと伝えたのでした。

奇しくも、将門公が生まれた903年はちょうど道真が亡くなった年であります。すなわち将門公は道真公の生まれ変わりであると告げられたのです。これを知った朝廷は恐怖におののいたことでしょう。

しかし、天皇をさしおいて自らを新しい天皇「新皇」と呼ぶ将門公を、朝廷が放っておくはずがありません。が、簡単には平将門を制圧できません。

そのため、朝廷は九州の宇佐八幡宮、奈良の東大寺、京都の醍醐寺、大阪の住吉大社、千葉の新勝寺などに将門公調伏の祈祷を命じました。神霊的な手法を用いて将門公を鎮圧しようとしたのです。

天皇をはじめ、諸官、諸僧、諸神官が神仏に祈りを捧げました。また将門の名のついたお札を炎の中に投げ込み、人形を木に吊るすという将門公滅亡の呪術を行いました。

同時に朝廷は鎮圧のために同じ東国出身の武士である平貞盛、藤原秀郷らを討伐軍に任命します。

940年、将門公はついに藤原秀郷に討ち取られます。朝廷軍の矢が将門公の片目を貫き、落馬したところを藤原秀郷により首をはねられました。平将門が自らを新皇と称してわずか2か月の出来事でした。

(平将門を討ち取った藤原秀郷)

 

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