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陰陽五行思想とは
五行
陰陽の二大大気が重なり合い和合した結果、地上には木・火・土・金・水の五元素、五気が生じました。
この五元素が動くこと、作用すること、循環することが『五行』です。一日の朝・昼・夜も、一年の春・夏・秋・冬もすべてこの五行です。
木火土金水は、互いに相生、相剋して作用、循環し、宇宙間のありとあらゆるもの、つまり色彩・方位・季節・惑星・天神・人間精神・道徳・内臓・十干十二支などを表わします。
相生、相剋
相生とは、木は火を生じ、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生じるという順序のことです。五気が順々に相手を生み出していくプラスの関係です。水気によって生じた木気は、再びはじめにかえって火気を生み、無限に循環します。
相剋とは、相生が順々に相手を生じてゆくのに対し、反対に木・火・土・金・水の五気が順々に相手に取り込まれることであります。いわばマイナスの関係で、土気は木気に取り込まれ、水気は土気に取り込まれ、火気は水気に取り込まれ、木気は金気に取り込まれます。金気によって取り込まれた木気は、再び土気を取り込み、循環します.
この世のありとあらゆるものは、プラスの面(相手に影響を与える)のみ強調して活動し続ければ必ず破局します。一方に必ずマイナスの面(協調、受容)が必要です。
人間関係も同じですね。
この世のありとあらゆるもの表す木火土金水の間で、相生、相剋の二面があってはじめて合理的に循環し、この循環、すなわち五行によってこの世のありとあらゆるものの永遠性が保証されるというわけです。
陰陽五行がありとあらゆるものを表し、循環することで存在できているという考え方が基本となる陰陽五行思想は、祭政、占術、年中行事、医学、農業の基礎原理となり、軍事に至るまで実践応用されたのでした。
日本最大の風水都市 東京
ここで平将門公の首塚がある大手町一丁目に再び戻りましょう。
今からは想像できませんが、かつてここには日比谷入江と呼ばれる入江があり、江戸湾の波がひたひたと打ち寄せる海辺でした。
江戸重継
東京に最初に着目したのは江戸重継(平安時代末期の武将)でした。重継は平将門の子孫であり、同じく桓武平氏の末裔で、秩父氏当主の四男でしたが、平安末(12世紀半ば)に武蔵国江戸郷を相続します。
その時から武蔵江戸氏初代当主となり、江戸四郎と称して、江戸の地の支配者となります。
重継は江戸一帯を支配するため、日比谷入り江の高台(江戸時代の江戸城の本丸・二の丸の周辺)に館を築きました。これが江戸城の前身になります。
太田道灌
その後、この場所を引き継いだのは太田道灌(室町時代後期:1432~1486)です。太田道灌は関東管領扇谷上杉氏の家宰(当主に代わって家政を取り仕切る責任を担う者)でした。
太田道灌が築城しようとした当時、この辺りは利根川と荒川の河口に近い海辺でした。現在とは地形が違い、江戸城の目の前は海でした。そして周囲には低湿地と海が広がるばかりで、人が住む場所も少ないところでした。
「道灌日記」という記録によると、道灌は霊夢のお告げによって江戸の地に城を築いたとあります。
太田道灌は江戸城を築城し、鬼門の守護として表鬼門に筑土神社、柳森神社、城内鎮守には山王日枝神社の分霊をお祀りしました。
この時の大手門(城の正面玄関)は、現在の北桔梗門でした。
(山吹の里伝説)
徳川家康
地の果ての坂東(かつて将門公が取りまとめた関東)への領地替えという秀吉の命令に従った徳川家康は、太田道灌の居城をそのまま引き継ぎ、徳川の守護の要としました。
そして家康公とそのブレーンであった天海増正(1536~1643年)による江戸の大改造が行われました。
防御のために外堀、内堀を張り巡らせ、城近くに船が入れるようにして、物流網を整えました。また、神田山と呼ばれる丘陵地を切り崩し、入江を埋め立て土地を拡張していきました。
この時、大手門を首塚の位置に移しました。大手門とは、大名や役人が登下城するための正面玄関です。
江戸は城下町として、江戸城を中心に開発されていくのですが、大手門はその開発の出発点でした。
そして将門公の首塚がその出発点にお祀りされているのです。
城内にあった※江戸神社は動かしても将門塚は動かさず、その近くにわざわざ大手門を移動させてきました。
家康公、そのブレーンであった天海僧正が将門塚を非常に重要な場所として扱っていた証左でもあります。
また、江戸城からするとここは鬼門に相当する場所でした。邪悪なものが入らないように、将門塚は鬼門の守り神として扱われました。
お祀りすることで怨霊として名高い将門公の祟りを鎮め、江戸城(徳川家康自身)の守護神とする意図がありました。
恐れと同時に敬う。そこには祟り神を盛大にお祀りして守護神として扱う御霊信仰(ごりょうしんこう)が現れています。
そして武家による幕府を切り拓いた家康公の、将門公への崇敬の念の現れだと考えられます。
御霊信仰とは
日本人は、神が祟りをなすことを古くから恐れてきました。
やがて奈良、平安と時代が移るにつれて、非業の死を遂げた人間の霊は祟りをなすという信仰が強まっていきました。
生前に恨みを残して死んだ人間の霊は『怨霊』『御霊』と呼ばれ、御霊は一種の神とみなされました。なぜなら神にしかできないような祟りや災いをもたらすからです。
疫病や災厄は御霊の仕業と信じられました。
この御霊を和めるべく読経や雅楽、歌舞などの奉納が行われ、これがのちに民衆に解放されて“祭り”となりました。
※江戸最古の神社 江戸神社
江戸で最も古い地主の神社があり、江戸氏は氏神として祀りました。それが江戸神社です。
大宝2年(702)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称されました。
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道潅が江戸城を築城してからも引続き城地にお祀りしました。
慶長8年(1603)、徳川家康による江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、神田明神境内にご鎮座されています。
特殊な力を持つ場所
江戸重継、太田道灌、徳川家康が現在の皇居の場所に特別な力を見出し、それぞれの根城としてきました。
徳川幕府が265年という長きに渡り繁栄したのは、この江戸城と江戸城を中心とした都市計画に拠るところが大変大きいのです。
徳川家康と天海僧正の都市計画により、江戸の町は日本一の都市へと発展を遂げました。
江戸の最盛期の人口は100万人を超えたといわれ、パリ54万人、ロンドン86万人を上回るトップクラスの人口を持つ大都市でした。
何もなかった江戸に目をつけた徳川家康、天海僧正は、非常に先見の明があったと言えるでしょう。
しかし特別な場所は江戸城だけではなく、将門塚が築かれた場所もまた特殊な力を持っていました。