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東京の守護神・平将門~他に類を見ないほど強力な”陰”のパワースポット~③

  • 2019年10月12日

将門公の人物像

将門公の歴史をたどり浮かび上がるのは、その人物像です。

将門公が朝廷から謀反を疑われるようになったのは、仲違いをしていた国司と郡司の間を取り持つために仲介をしたことが始まりでした。

悪事をなす武蔵国権守興王(むさしのくにごんのかみおきのおう)と、民を想い正しい道理に拠って政治を行っていた足立郡司(あしだてぐんじ)で判官代(ほうがんだい)の武蔵武芝(むさしたけしば)が争っていたため、その仲介をしようと、将門公が間に割って入りました。が、思わぬところで恨みを買い、朝廷に謀反を起こそうとしていると、濡れ衣を着せられそうになりました。

また、藤原玄明(ふじわらはるあき)は国にとっては乱を起こす人物であり、人民にとっては害毒となる人物で、野蛮で盗賊のようであり問題人物でありました。玄明を捕らえて常陸国府へ送らせるようにと言う文書が将門の元にも送られてきましたが、将門は元来、失意の人を助けたり、よるべのない者を世話して、力をつけていました。助けを求めてきた藤原玄明を受け入れ、国府からの引き渡しを拒んだことで、朝廷の敵となりました。

将門公は新皇の名を失い、身を滅ぼしましたが、すべは武蔵国権守興王、藤原玄明が行ったことによります。

将門公は懐に飛び込んできた他人を命がけで助けたとも言えます。

新皇という自身の分際を大きく超えた大望を抱き、それは儚い夢と散りましたが、勇猛で助けを求める人を拒まず受け入れる正義の味方であり、人格者である姿が浮かびあがります。

また朝廷との話し合いにおいても、自身に有利に事を運んだ姿からは、コミュニケーション能力にも優れていたことがうかがえます。

その人物像から、死後怨霊となるほどの恨みの念は抱いていなかったと推測されます。怨霊になったという説は不自然な気がします。

怨霊となるにはある条件が必要です。それは、生前に非常に強い恨みを抱いて死に至った経緯があり、死後恨みの思念が魂に残ることです。その結果成仏できずに怨霊となります。

平将門公の資料に目を通しても、”生前抱いていた強い恨み”を見出すことはできませんでした。

”平将門公は怨霊となって祟った”という今までの思い込みは、実際に目にした首塚、また史実から判断することで見事に覆されたのでした。平将門公の怨霊ではなく、怨霊もどきが存在するのです。

将門公は東洋のロビン・フッドだった

死後、東人(あづまびと)の夢を担って一旗揚げた将門公は、関東では絶大な人気を誇りました。今でも将門信仰の名残は、関東全域に見られます。

また江戸時代の浮世絵には、将門公が頻繁に登場し、各絵師によってダイナミックに描かれています。強きをくじき、弱きを助ける将門公の姿は、江戸っ子の心に響く格好の題材だったのでしょう。スーパーヒーロー参上です。

皇族の血を引きながら現状に満足せず、東国の武士を束ね、常陸・上野・下野を占拠し、東国全域における支配権を奪い取った姿は、中世イングランドの伝説上の義賊、さながらロビン・フッドのようです。

(※ロビン・フッドは悪代官を懲らし,貴族や聖職者の富を奪い,貧しい人々を助ける義賊となって活躍する、庶民に愛される人物です。)

将門公は朝廷からすれば反逆者であり、東国の民衆からすればヒーローであります。これはそのまま、関西では恐れられ、関東では愛されるという結果につながりました。

怨霊伝説はファンタジーだった

将門公死後の有名な怨霊伝説の一部をご紹介します。

没後の将門公にまつわる伝承
  • 死後の将門公

『平治物語』によると、京の七条河原にさらされた将門の首は、数か月もの間、目を見開き、歯ぎしりを続けた。そして『斬られた自分の体はどこだ。ここへ持ってこい。首をつないでもう一度戦をするぞ。』と夜な夜な叫び、京の人々は大いに恐れた。

  • 現在の位置に首塚が設けられた経緯

 

将門には関東に残してきた愛人“桔梗”がおり、その桔梗を慕って、首がさらされて3日後に、白光を放って関東へ飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎村へ落ちた。この場所が東京都千代田区大手門1丁目、現在の首塚がある場所である。この時、大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになり、村人は恐怖して塚を築き、将門公の首を埋めたというのが、首塚であるとされる。

※実際は将門の家臣の要請で僧侶が中に入り、この地に納められたのではないかとも言われています。

将門公だけではない数々の首塚伝説

日本の民族伝承の中には、平将門だけでなく、木曽義仲、新田義貞、楠正成、明智光秀などの武将の首塚伝説が各地にあります。非業の死を遂げたと知られている武将たちの首が埋められていることが多いのです。また、“空を飛ぶ首”もまた、他の首塚に共通するモチーフであります。

古代の怨霊に対する考え方

平安時代と聞くと、貴族が寝殿造りの立派なお屋敷に住み、優雅な生活をしていたというイメージがあります。庭園には美しく咲き誇る桜の木があり、池が設けられ、広い中庭があるのが一般的でした。

が、それはほんの一握りの特権階級の生活であり、全人口の97%となるほとんどの庶民(農民、漁民、商人など)は竪穴式住居のような住居に住んでいたとされます。

竪穴式住居と言えば縄文時代ですが、当時と変わらない住居に住んでいたのでした。最も身分が低い人々は、板を打ち付けただけの掘立小屋に住んでいたとされます。

トイレは水洗式ではなく、庶民は家にたまった排泄物を自分たちで川に流し管理しました。お屋敷であっても、係の者が同じようにたまった排泄物を川に流したので、家屋は総じて臭かったといわれます。衛生状態は最悪でした。

その時代の人々が怨霊を恐れる気持ちは、現代の比ではありません。

現代のように科学的に説明ができない時代であれば、衛生状態が悪いために蔓延する疫病や、突然襲い来る自然災害などに対してなすすべもなく、恐怖するしかありません。

自然の猛威は現代人である私たちにとっても、時に恐ろしいものであります。平安時代の人々にとっては、その怖さはいかばかりであったでしょうか。それが怨霊の祟りだと説明されれば、人々はそれをすんなりと受け入れ、噂がまことしやかに広まったということは想像に難くありません。

真実は藪の中

真実はいつでも支配者の事情によって隠されます。将門公の怨霊のせいにした方が、なにかしらの物事が都合良く進んだのでしょう。

時の為政者が民衆を支配するために、怨霊と言う仮想敵をつくりあげることは常套手段として用いられます。

菅原道真公も怨霊伝説がありますが、実際の道真公は左遷された身であっても誰も恨まず、国を想い、人を想い残りの人生を捧げたという説もあります。

怨霊伝説の多くは、時の権力者の事情によって生まれたのではないでしょうか?

怨霊伝説が言い伝えられるうちに誇張され、未だに私たちは怨霊伝説を受け入れています。

この世に怨霊は存在しますが、現在の将門塚にはそれは感じられませんでした。むしろ、心や体が軽くなるという聖地のようになっていました。

史実と実際の首塚を目にした後に怨霊伝説を見直すと、将門公の怨霊伝説は物語であると感じられます。

では、首塚の地が持つすさまじい力とは一体どのようなものなのでしょうか?数々の怨霊伝説を引き起こすことにすらなったがそこにあります。

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