東京の守護神・平将門~他に類をみないほど強力な“陰”のパワースポット~①

  • 2019年10月7日

【平将門の首塚】

【真実を求めて】

東京都千代田区大手町1丁目に存在する平将門の首塚。
訪れたことはなくても、この首塚に関する様々な伝承を聞かれたことがある方は多いのではないでしょうか?
この首塚を整地したり、不敬のふるまいをすると平将門が祟り、不幸現象を起こすという噂を一度は耳にされたでしょう。実際に起きた事件は枚挙にいとまがありません。
しかし、偶然平将門の首塚の写真を見た時に、別の意味でもの凄いパワーを秘めている場所であることに気付きました。
世間の噂と実情は異なっている場合が多々あります。

そこで、実際にこの目で確かめるべく、首塚を始め平将門にまつわる神社を巡ってきました。
そこで見ることができた光景は想像を超えた数々でした。

(旧江戸城の正門である大手門の近くにあり、周囲はオフィスビルに囲まれる将門の首塚。一歩外に出ると、ビジネスマンが行き交う。)

まずは、平将門の首塚にまつわる怨霊伝承を一部ご紹介します。

【怨霊伝承の数々】

①江戸城が完成したころ(1636年頃)、このあたりは大名地となり、酒井家の屋敷が建てられ、首塚は中庭に取り込まれました。
その後、ここに稲荷将門神社が建てられ、奥女中たちに信仰されました。しかし、1671年この敷地内で伊達安芸、原田甲斐が殺され、将門公の祟りだと恐れられます。
明治に入ると酒井邸は取り壊され、大蔵省庁舎が建てられ、首塚はそのまま残されました。

②1923年の関東大震災で大蔵省庁舎は焼失し、焼け跡の整理の際、大蔵省は首塚を崩して整地し、その上に仮庁舎が建設されました。
大蔵省の記録によると、この仮庁舎でケガや病気になる者が続出し、ついには大蔵大臣や幹部職員が相次いで14人も変死するという奇怪な現象が起こります。
この事態に震えあがった役人は、仮庁舎を取りはらい、1927年、神田神社の社司による将門公の鎮魂を行いました。非常に盛大なものだったと言われます。ちなみに、この鎮魂を行った社司は、国学者平田篤胤の孫であり、将門公の末裔にあたる人物でした。

③ところが、鎮魂を行ったにも関わらず、祟りはおさまりません。1940年、大蔵省本庁舎に突然落雷があり、多数の死傷者が出ました。この年は、奇しくも将門公の没後1000年にあたる年でした。
急遽一千年祭りを盛大な規模で執行し、将門首塚保存費を新しく出すことになり、大蔵省役員全員で将門公の霊に詫びたということです。そして、河田烈大蔵大臣自らが筆をとり、古跡保存費を建立しました。(この保存費は現在でも残っています。)

④その後、大蔵省はこの地を逃げ出し、霞が関に移転しましたが、1945年空襲で庁舎が全焼し、多くの役人が死傷しました。

⑤GHQの資料によると、敗戦後アメリカ軍が来て、単なる焼け跡としてブルドーザーで整地したところ、何かの石に当たって横転し、二人が下敷きとなり、ひとりは即死しました。焼土の中に墓石にようなものがあり、地元の人に聞くと、首塚であることが判明します。保存を司令部に陳情し、首塚はどうにか保存されることになりました。

⑥しかし、異変は止みません。1961年、首塚の東側の土地が日本長期信用銀行と三井生命保険相互のものとなり、ビルが建設されました。
が、日本長期信用銀行が建設された場所が、首塚の旧参道上でした。2年後、塚に面した各階の部屋の行員が次々に発病します。そこで、神田神社の神官を招いてお祓いをしました。

⑦ 1973年には、首塚を挟んで二つのビルが建設されました。丁重に供養してから建設を始めたビルは、事故は全く起きませんでしたが、もう一つの無関心であったビルでは、地下の工事中に二人の作業員が死亡し、同じ場所でケガをする人が続出したといいます。

凄まじい威力を発揮する特別な場所であった将門の首塚は、今は大切に保存されています。

この一連の出来事の裏では、祟り以外の別の力が働いています。

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かねてよりワークショップ開催のご要望をいただいていたのですが、コロナの影響で延びに延び、やっと実現する運びとなりました。普段は除霊や開運調整を行っていますが、ワークショップでも簡易除霊を行います。そして自己を癒すワーク、その後願望実現ワークを行います。今は願いが叶う時代です。人々の意識が高まり。それが可能になりました。いくつになっても、夢は叶います。

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