平将門をお祀りしている神社①築土神社

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築土神社・将門信仰の聖地、歴史の波濤を越えて現代に輝く

東京都千代田区九段北、オフィスビルが立ち並ぶ一角にひっそりと佇む築土神社。九段下駅から徒歩1分という利便性の高い立地でありながら、一歩足を踏み入れると、そこは喧騒とは隔絶された静謐な空間が広がります。この神社は、平安時代中期の武将、平将門公ゆかりの地として知られ、その歴史は深く、将門公の首塚伝説から現代的なビルに組み込まれた社殿へと、時代の荒波に翻弄されながらも信仰を守り抜いてきた、数奇な変遷の物語を秘めています。将門信仰の聖地として、また、武運長久や勝運向上を願う人々にとって、かけがえのない場所として崇敬を集め、その存在は現代においてもなお輝きを放っています。

神社の基本情報・鎮座地、祭神、社紋

築土神社は、東京都千代田区九段北1-14-21に位置し、九段下駅1番出口から徒歩1分というアクセス至便な場所に鎮座しています。都心の喧騒を忘れさせる落ち着いた雰囲気は、訪れる人々に安らぎを与えます。

御祭神は、主祭神として天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)をお祀りしています。天津彦火邇々杵尊は、天照大神の孫にあたり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とも呼ばれる、日本神話において重要な神様の一柱です。天孫降臨の際に地上に降り立ったとされる神であり、五穀豊穣や国家安泰の神として崇められています。相殿には、平将門公と菅原道真公が祀られています。平将門公は、平安時代中期の武将であり、関東地方を舞台に活躍した英雄として、また、祟り神としても知られています。菅原道真公は、学問の神様として広く信仰を集めており、学業成就や合格祈願のために訪れる人が後を絶ちません。

築土神社の社紋は、九曜紋が用いられています。中央の大きな星の周りに九つの小さな星が配されたこの紋様は、妙見信仰との深い関わりを示唆しています。平将門公は妙見大菩薩を崇敬しており、九曜紋はその信仰を象徴する家紋として用いられていました。妙見信仰は、北極星を神格化し、人々の運命を司る神として崇める信仰であり、その影響は武家社会を中心に広く浸透しました。

悠久の歴史・創建、移転、社号の変遷

築土神社の歴史は、940年(天慶3年)に遡り、その創始は平将門公の首塚伝説に深く根ざしています。藤原秀郷らによって討たれた平将門公の首は、京都で晒された後、密かに持ち去られ、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現在の千代田区大手町周辺)にあった観音堂に祀られました。これが築土神社の始まりであり、当時は津久戸明神と称されていました。将門公の御霊を慰め、その祟りを鎮めるために祀られたのが起源と考えられています。

その後、室町時代には、太田道灌が江戸城を築城する際に、社殿を整備し、太田家の守護神、さらには江戸城の守護神として崇敬しました。太田道灌は、江戸の基礎を築いた名将として知られ、築土神社を篤く信仰したと伝えられています。しかし、江戸城の拡張や江戸城外堀の拡張工事に伴い、築土神社は度重なる移転を余儀なくされました。

1616年には、新宿区築土八幡町へと移転しましたが、その後も九段中学校の建設のために、世継稲荷神社の敷地内へと移転することになります。そして、1994年には、社殿の老朽化に伴い、現在のコンクリート壁の現代的な社殿へと改築されました。

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江戸時代には、「津久戸大明神」または「築土明神」という社号を用いていましたが、明治7年に「築土神社」へと改号されました。明治維新以降の神仏分離政策の影響を受け、神社としての名称を明確にする必要が生じたためと考えられます。

このように、築土神社はその長い歴史の中で、何度も場所を変え、姿を変えながらも、将門信仰の中心地として、地域の人々に支えられ、信仰を守り続けてきました。その変遷は、まさに日本の歴史そのものを映し出していると言えるでしょう。

将門信仰との深い絆・英雄、祟り神、そして守護神への変遷

築土神社は、数ある将門ゆかりの社寺の中でも、将門信仰の聖地として、特別な意味を持っています。その起源は、平将門公の首が祀られたことにあり、津久戸大明神には、平将門公の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたという言い伝えも残っています。将門公の御霊を慰め、その祟りを鎮めるために祀られたのが起源と考えられていますが、次第に関東地方の英雄としての側面が強調されるようになり、武運長久や勝運向上を願う武士たちの信仰を集めるようになりました。

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平将門公は、死後、東国においては英雄として祀り上げられましたが、明治時代になると、皇国史観の影響もあり、天皇に反抗した「逆賊」として評価されることもありました。そのため、築土神社では便宜上、天皇系統と関わりの深い天津彦火邇々杵尊を主神とし、平将門公を相殿神とすることで、表向きは将門公との関係を希釈化しました。明治政府の方針に従い、神社としての形態を維持するための苦肉の策であったと考えられます。

しかし、戦後、政教分離が確立されると、築土神社は将門公を祀る神社であることを再び公言するようになり、現在では、将門信仰の中心地として、多くの人々が参拝に訪れています。将門公の御霊を慰め、その武勇にあやかろうとする人々の祈りが、今もなお築土神社に集まっています。

築土神社には、平将門公が妙見大菩薩を崇敬していたことに由来する九曜紋が掲げられています。妙見信仰は、北極星を神格化し、人々の運命を司る神として崇める信仰であり、平将門公は、妙見大菩薩の加護を得て、数々の戦に勝利したと伝えられています。妙見信仰は、武士階級を中心に広く信仰を集め、築土神社もその影響を強く受けています。

現代に息づく歴史・社殿、狛犬、お守り、そして信仰

現在の築土神社の社殿は、コンクリート壁で覆われた現代的なデザインですが、住吉造の要素を取り入れ、一部に神明造風の構造を取り入れた独特の様相を呈しています。現代的な建築の中に、伝統的な神社の様式を取り入れることで、過去と未来を結びつける試みが見られます。

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社殿の前に鎮座する狛犬は、1780年(安永9年)に元飯田町の氏子によって奉納されたもので、千代田区内に現存する狛犬の中では最も古いものとして、千代田区有形文化財に指定されています。一方の頭上には「角」、もう一方には「宝珠」が付けられているのが特徴です。長い年月を経てもなお、その姿は当時の面影を留め、歴史の重みを伝えています。

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築土神社では、平将門公ゆかりの黒馬にあやかった「勝守(かちまもり)」が、毎年1月1日から1月15日までの十五日間限定で授与されています。

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このお守りは、武運長久や勝運向上を願う人々に人気があり、多くの人々が求めに訪れます。将門公の武勇を象徴する黒馬は、現代においても勝利の象徴として人々に力を与えています。

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開運のパワー静謐な空間、武道の殿堂との繋がり、そして心の拠り所

また、築土神社は、「武道の殿堂」といわれる日本武道館の氏神として、その本殿に鎮座しています。平将門公は、関東にて戦場を縦横無尽に駆け巡り、多くの勝利を収めたことから、武道の神様として崇められており、日本武道館に鎮座することで、武道に励む人々を守護しています。武道家たちは、築土神社に参拝し、日々の鍛錬の成果を祈願し、武道の精進を誓います。

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築土神社は、平将門公ゆかりの神社であることから、非常に力強いパワーが満ちていて、張りつめた緊張感が感じられるといわれています。この独特の力を感じようと、多くの人々が築土神社を訪れ、静かに祈りを捧げます。

築土神社は、現代社会において、人々の心の拠り所としての役割を果たしています。ストレスの多い現代社会において、静謐な空間で心を落ち着かせ、過去の歴史に思いを馳せることで、心の安らぎを得ることができます。また、将門公の御霊に触れ、その武勇にあやかろうとすることで、困難に立ち向かう勇気を与えられます。

結び・歴史と信仰が織りなす、永遠の輝き

築土神社は、平将門公の歴史と信仰が色濃く残る、都心にありながらも特別な雰囲気を持つ神社です。その長い歴史の中で、何度も場所を変え、姿を変えながらも、将門信仰の聖地として、地域の人々に支えられ、信仰を守り続けてきました。

ABOUT ME
Shokey Hayashi
Shokey Hayashi
エクソシスト/ラジオニクス技法研究家
1965年、青森県に生まれ 幼少期から霊的な現象によるトラブルや病気、怪我に悩まされてきた。しかし、20歳のある日、イベント参加、会場で不思議体験、天からの稲妻エネルギーが降り注ぎ、脳から脊髄を貫くような衝撃を受け、霊能力が開花。その後、心理学と超能力の研究をスタート、現在は、霊能力と意識工学を融合させた。独自のラジオニクス技法をにて「ラジオニクス除霊」を確立。除霊、供養、癒しを超えた「運気の治療まで可能となる」
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