伊勢国の神々ー⑥伊雑宮

深遠なる鎮守の森
伊勢神宮の奥宮とも称される伊雑宮(いざわのみや)は、三重県志摩市磯部町にひっそりと佇む、深遠なる鎮守の森に抱かれた古社である。その歴史は二千年前まで遡り、天照大神の遥宮として、皇大神宮の別宮としての役割を担ってきた。地元の人々からは「いぞうぐうさん」「磯部の宮」「磯部の大神宮さん」など、親しみを込めた様々な呼び名で愛され続けている。
伊勢市から鳥羽へと車を走らせること約30分。目的地の伊雑宮を目指す道中、折しも天皇陛下が即位の礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀のため伊勢にお越しになられた日と重なった。早朝、伊勢神宮内宮近くで、天皇陛下がお乗りになる荘厳な馬車と偶然すれ違うという貴重な体験をした。

風光明媚な伊勢・志摩・鳥羽の景色を堪能するため、伊勢志摩スカイラインをドライブする。眼下に広がるのは、どこまでも続く伊勢湾の美しい眺めだ。青い海と空のコントラスト、そして点在する島々の緑が織りなす風景は、まさに絶景と呼ぶにふさわしい。
実は、史上最初の伊勢志摩観光を試みられたのは、持統天皇だったとされている。持統天皇の歌にもその様子が詠まれている。
「伊勢の海の白水郎(あま)の島津が鰒玉(あわびたま)、取りて後もか恋の繁けむ」
この歌の意味は、「伊勢の海の海人(あま)の島津(しまつ)の鰒玉(あわびたま)は、採って手に入れた後もとても恋しく思うものです」というもの。「鰒玉(あわびたま)」は、「鰒(あわび)」からとれる真珠のことで、この真珠を女性に譬(たと)えて、恋が結ばれてからもとても恋しく思う気持ちが変わらないことを詠んだ歌と考えられている。持統天皇の時代にはまだ現在の伊勢神宮は存在していなかったが、既にこの地が特別な場所として認識されていたことが窺える。

伊勢神宮へのお参りが盛んになったのは、15,6世紀からのことで、江戸時代には全国的な流行となった。そして、伊勢神宮参詣の際には、伊勢・志摩を観光することが人々の楽しみの一つとなっていった。
伊雑宮は、志摩国の一宮として、この地域の信仰の中心を担ってきた。既に紹介した瀧原宮と同じく、天照大神の遥宮であり、皇大神宮の別宮という位置づけである。
伊雑宮で毎年6月24日に行われる「御田植式」は、日本三大田植祭の一つとして知られ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。この御田植式は、豊作を祈願する神事で、古式ゆかしい装束を身にまとった人々が、田んぼの中で田植えを行う様子は、圧巻の一言だ。

伊雑宮の創立は、約二千年前の第11代垂仁天皇の御代に遡る。倭姫命が御贄地(みにえどころ)を定めるために志摩国に入ったところ、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に迎えられ、この地にお宮を創建したと伝えられている。伊佐波登美命は、この地域の有力な豪族であり、倭姫命を歓待し、伊雑宮の創建に尽力したとされる。
【忌火屋殿(いみびやでん)】
伊雑宮には、忌火屋殿(いみびやでん)と呼ばれる特別な場所がある。忌火とは、”清浄な火”を意味し、火鑽具(ひきりぐ)を用いて火を起こし、お供えものを準備する。この場所で火を起こし、神饌を調理することで、神々に清らかな食事を捧げている。
ご神宝が奪われた歴史
伊雑宮は、その長い歴史の中で、幾度かの困難に見舞われてきた。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまうという悲劇に見舞われた。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。この事件は、伊雑宮の歴史における大きな汚点として、今も語り継がれている。
閑静な住宅地にある伊雑宮。その鳥居をくぐると、それまでの喧騒が嘘のように静けさがあたりを包み込む。神聖な空気が漂い、心が洗われるような感覚を覚える。
【参道】
参道は、杉木立に囲まれ、昼なお暗い。参道を歩いていると、まるで異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。右手には、巾着楠と呼ばれる楠が見える。樹木の下部がこんもりと膨れた姿から巾着のように見えるということで、巾着楠と呼ばれている。このユニークな形は、長年の歳月をかけて育まれたものであり、伊雑宮のシンボルの一つとなっている。この境内に降り注ぐ大量のエネルギーによってこれほど大きくなったのだろう。ここも強力なゼロ磁場であるという。

【巾着楠】

杉の樹々からも高いエネルギーを感じる。木々の生命力に圧倒され、自然の偉大さを改めて実感する。

運命はここからスタートする
境内は参拝者もおらず、深く静まり返っている。まるで時間が止まったかのような、静寂な空間が広がっている。

歩くと自分の足音が場と共鳴し、空間と一体となっていきます。そのことによって空間だけでなく神と一体となる感じがしてきた。すると『良く来たぞ。ここで心をおさめよ。我を受け入れよ。』という言葉が頭上から降ってきたように感じた。その意味は、“神を受け入れることによって願いは叶う”ということのようだ。

参拝された時には、足音に耳と心を傾けてほしい。空間に拡がった音が自分に返り、心に深く浸透すると、神もまた自分の中に入ることを感じることができる。そしてこの土地の神様がお伝えくださることは、『運はここから始まる。運命はここからスタートする。新しいサクセスストーリーがつくられる。』ということだ。何かをスタートさせたいと願う人、新しいサクセスストーリーをつくりたい人は、ぜひここにお参りいただきたい。

伊雑宮でも、式年遷宮が20年に一度行われる。平成26年秋に式年遷宮が行われた。式年遷宮とは、社殿を新しく建て替え、神様にお遷りいただく神事で、伊勢神宮をはじめとする多くの神社で行われている。
倭姫命の遺跡~里人は言う~

伊雑宮から少し離れた場所に、倭姫命の旧跡地がある。鏡楠と天上石がお祀りされている。倭姫命は、天照大神を祀る場所を探し求めて各地を巡幸したとされる皇女であり、伊勢神宮の創建に深く関わった人物として知られている。
天井石

大正末期、伊雑宮近くの大楠が伐採された時、地面から石棺が出土し、その下から鏡や勾玉などの神器が出てきて、倭姫の遺蹟ではないかと大騒ぎとなった。しかし、この地の鑑定は封じられていた。里人たちは、ここは倭姫命の遺蹟であろうと千田寺をたて、遺影をなぐさめ、楠を植え楠宮の霊所としてきた。隣には、庚申堂、秋葉堂がある。旧千田寺の跡地だ。
庚申堂、秋葉堂には伊弉諾神、伊弉冉神と伊佐波登美命がお祀りされている。この場所は、伊雑宮の歴史を語る上で欠かせない場所であり、多くの人々が参拝に訪れている。伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であると伝える文書も残っており、隠された真実がここに眠っている。

伊雑宮を訪れた際には、ぜひこの倭姫命の遺跡にもご参詣いただきたい。あなたの直感が、隠された真実に気づくかもしれない。
伊雑宮は、訪れる人々に静けさと安らぎを与え、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれる、そんな特別な場所である。深い鎮守の森に抱かれ、悠久の歴史を刻んできた伊雑宮は、まさにパワースポットと呼ぶにふさわしい場所です
伊雑宮は、伊勢神宮内宮、外宮とはまた違った趣のある神社です。ぜひ、静かな時間を過ごしに、訪れてみてください。そして、伊雑宮の神様からのメッセージを受け取ってみてください。きっと、あなたの人生に新たな光が差し込むことでしょう。