神聖な地に創建された穴八幡宮

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穴八幡宮・歴史と信仰が息づく、早稲田の聖地

東京都新宿区西早稲田に鎮座する穴八幡宮は、都心にありながら豊かな緑に囲まれた、静謐な雰囲気を漂わせる神社である。地下鉄東西線早稲田駅からほど近く、アクセスも容易なことから、地域住民のみならず、多くの参拝者が訪れる。その歴史は古く、古墳の上に建立されたという説や、江戸時代に発見された金銅の御神像を起源とする伝承など、数々の物語に彩られている。穴八幡宮は、地域を守護する鎮守としての役割に加え、金運向上を願う人々から厚い信仰を集める「一陽来復」のお守りでも知られている。

1. 古墳の記憶を宿す聖地

穴八幡宮が鎮座する場所は、早稲田大学に隣接する小高い丘の上にある。この一帯は、かつて大規模な古墳群が存在した可能性が指摘されており、穴八幡宮の境内も、前方後円墳の上に築かれたという説が有力である。古墳は、古代の人々が権力者や有力者のために築いた墓であり、その上に神社が建立されたということは、この場所が古くから神聖な場所として認識されていたことを物語っている。

古墳の上に神社を建立する例は、日本各地に見られる。これは、古代の人々が、古墳を祖先の霊が宿る場所として崇拝し、その霊力にあやかるために、神社を建立したと考えられている。穴八幡宮の場合も、古墳の上に神社を建立することで、古代からの霊的な力を受け継ぎ、地域の守護神としての役割を果たしてきたと言えるだろう。

古墳の上に神社が建立された背景には、古代の信仰と神道の融合という側面も存在する。古代の人々は、自然の中に神々が宿ると考え、山や川、巨石などを崇拝していた。古墳も、その一つであり、祖先の霊が宿る神聖な場所として崇拝されていた。一方、神道は、日本の固有の宗教であり、自然崇拝や祖霊崇拝を基盤としている。神道は、古墳を崇拝する古代の信仰を取り込み、古墳の上に神社を建立することで、より多くの人々を信仰の対象として取り込むことに成功した。

2. 金銅の御神像が語る始まりの物語

穴八幡宮の社伝によると、その名の由来となった出来事は、江戸時代の寛永18年(1641年)に起こったとされる。当時、宮守の庵を造るために、社僧の良晶が南側の山裾を切り開いていたところ、偶然にも横穴を発見した。その横穴の中から、金銅の御神像が現れたという。この出来事に、良晶をはじめとする人々は大変喜び、「芽出度い」と口々に言った。以来、この場所は「穴八幡宮」と呼ばれるようになったと伝えられている。

穴八幡宮

この金銅の御神像が発見された横穴は、古墳の石室であった可能性が高い。古墳の石室は、被葬者を安置する場所であり、様々な副葬品が納められていることが多い。金銅の御神像も、その副葬品の一つであったと考えられる。

金銅の御神像が発見されたことは、当時の人々にとって、大変な驚きと喜びをもたらした。なぜなら、金銅の御神像は、仏教の信仰対象であり、その発見は、仏教の力がこの地に及んでいることを示すものだったからである。また、金銅の御神像は、その美しさから、人々の心を魅了し、信仰心を高める役割も果たした。

3. 徳川将軍家の庇護と高田馬場流鏑馬

穴八幡宮は、江戸時代には、徳川将軍家の庇護を受け、発展を遂げた。特に、三代将軍徳川家光は、穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。これにより、穴八幡宮は、江戸幕府の重要な宗教施設として、その地位を確立した。

穴八幡宮が徳川将軍家の庇護を受けた背景には、その霊験あらたかさに対する期待があったと考えられる。当時、江戸幕府は、様々な宗教を利用して、民衆の統制を図っていた。穴八幡宮も、その一つであり、その霊験あらたかさを利用して、民衆の信仰心を高め、幕府の権威を高めることに利用した。

穴八幡宮

また、穴八幡宮は、高田馬場とも深い関わりを持っている。かつては、高田馬場の守護神として「高田八幡宮」と呼ばれていた。寛永13年(1636年)には、この地に的場が造られ、穴八幡宮を守護神とした。

八代将軍徳川吉宗が奉納した流鏑馬は、高田馬場流鏑馬として現在も続いており、スポーツの日(旧体育の日、10月第2月曜日)には、穴八幡宮に奉納される。高田馬場流鏑馬は、新宿区指定無形民俗文化財に指定されており、その伝統は、今もなお受け継がれている。

高田馬場流鏑馬は、武士の武芸鍛錬の一環として行われていたものであり、その奉納は、穴八幡宮が武士からの信仰も集めていたことを示している。また、高田馬場流鏑馬は、その華やかさから、多くの人々を魅了し、穴八幡宮の知名度を高める役割も果たした。

4. 一陽来復金運招来の信仰

穴八幡宮は、金運向上を願う人々から厚い信仰を集める「一陽来復」のお守りでも知られている。毎年、冬至から節分までの約一か月半の間、普段は静かな境内が、このお守りを求める人々で行列ができるほど賑わう。

「一陽来復」とは、もともとは中国の易の言葉で、陰暦10月に陰がきわまって11月の冬至に陽が初めて生じることから、陰暦11月、または冬至を指す。そこから、「冬が終わり春が来ること」「新年が来ること」「悪いことが続いた後で幸運に向かうこと」を意味するようになった。

一陽来復

穴八幡宮で「一陽来復」のお守りを授与する風習は、江戸時代から続いている。このお守りは、金運向上に効果があると評判で、多くの人々が、そのご利益を求めて穴八幡宮を訪れる。お守りは、壁に飾る日時と方角が指定されており、その指示に従って飾ることで、より高い効果が得られるとされている。

「一陽来復」のお守りが金運向上に効果があるとされる背景には、その言葉の意味が深く関わっていると考えられる。「一陽来復」は、悪いことが続いた後で幸運に向かうことを意味しており、その言葉自体が、人々に希望と勇気を与える力を持っている。また、「一陽来復」のお守りを授与する風習は、江戸時代から続いていることから、その歴史と伝統が、人々に安心感と信頼感を与えている。

現代に息づく信仰

穴八幡宮は、長い歴史の中で、様々な変遷を経験してきたが、その信仰は、現代においても衰えることなく、多くの人々の心を支えている。特に、近年では、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、社会全体が不安と閉塞感に覆われる中、穴八幡宮の「一陽来復」のお守りが、より一層注目を集めている。

「一陽来復」の言葉は、まさに、現在の状況にぴったりの言葉であり、多くの人々が、このお守りに、希望と勇気を見出している。穴八幡宮は、これからも、その長い歴史と伝統を守りながら、現代社会における人々の心の拠り所として、その役割を果たしていくことだろう。

まとめ

穴八幡宮は、古墳の上に鎮座する神秘的な場所であり、江戸時代に発見された金銅の御神像を起源とする伝承を持つ、歴史と信仰が息づく神社である。徳川将軍家の庇護を受け、高田馬場流鏑馬との繋がりを持ちながら、金運向上を願う人々から厚い信仰を集める「一陽来復」のお守りで知られている。穴八幡宮は、現代においても、その信仰を衰えることなく、多くの人々の心を支え続けており、その存在は、私たちに、歴史の重みと信仰の力を教えてくれる。

 

 

ABOUT ME
Shokey Hayashi
Shokey Hayashi
エクソシスト/ラジオニクス技法研究家
1965年、青森県に生まれ 幼少期から霊的な現象によるトラブルや病気、怪我に悩まされてきた。しかし、20歳のある日、イベント参加、会場で不思議体験、天からの稲妻エネルギーが降り注ぎ、脳から脊髄を貫くような衝撃を受け、霊能力が開花。その後、心理学と超能力の研究をスタート、現在は、霊能力と意識工学を融合させた。独自のラジオニクス技法をにて「ラジオニクス除霊」を確立。除霊、供養、癒しを超えた「運気の治療まで可能となる」
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