常陸国の神々④雲井宮郷造神社

朝霧に浮かぶ新治國の守護神

雲井宮郷造神社(くもいのみやくにのみやつこじんじゃ)

(茨城県筑西市倉持928)

御祭神武甕槌神(たけみかづちのみこと
新治国(にいはりのくに)(※)一宮

新治国(にいはりのくに):古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した国。大化の改新以後の律令制下では常陸国新治郡となる。『古事記』の倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に邇比婆利(にひばり)とある。
なお2006年(平成18年)まで存続していた近世の茨城県新治郡(にいはりぐん)とは、新治の呼称こそ同じであるが別である。

新治国の名の由来に関して、常陸国風土記、新治郡に記されています。

古老は次のように言っている。昔、美麻貴(みまき)天皇が天下をお治めになっておられた時代に、東方の夷の凶暴な賊を討伐しようとして、新治の国造(くにのみやつこ)の祖先で名前を比奈良珠命(ひならすのみこと)という人を派遣した。この人がやってきて、新たに井戸を掘ったところ、その水が清浄に流れ出た。そこで、井戸を治り(はり)ひらいたことをもって、群の名前として付けたのである。

また『真壁郡案内』(国立国会デジタルコレクション)に雲井宮郷造神社について次のように記載されています。

大村大字倉持鎮座今の雲井宮郷造神社にして現に郷社の列に在り。
社祀に左殿 事代主神(ことしろぬしのかみ) 畏奈良珠命(ひならすのみこと)
祭神 正殿 武甕槌神(たけみかづちのみこと)
右殿 大國主命(おおくにぬしのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)
と載せ、景行天皇の御代郷造畏奈良珠命(ひならすのみこと)の創建に係り、雲井宮號は平城天皇大同2年10月27日蔭子左中辨藤原宗成(※)伊豫新皇の事に坐し、常陸に配せられて水守に居り、日夕當社に詣でて恩赦を祈る。後赦されて京に帰るに及び報恩の為に奉れるものなりと。

藤原宗成:大同2年(807年)に平城天皇の弟である中務卿兼大宰帥・伊予親王に対して密かに謀反を勧めたとして、捕縛されて左近衛府に収監される。
宗成は左衛士府で尋問を受けると、謀反の首謀者は伊予親王であると答えた。
これを受けて、平城天皇は左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足等に兵150名に率いらせて藤原吉子・伊予親王母子を捕らえて川原寺に幽閉する。
母子は飲食を断たれ、間もなく毒を仰いで自殺した。
また、宗成自身も流刑に処せられた(伊予親王の変)。
その後、流刑から赦され、天長6年(829年)正六位上から従五位下に叙爵、天長9年(832年)従五位上に叙される等、淳和朝で僅かに昇進している。承和7年(840年)淳和上皇の崩御に際して、御前次第司次官に任ぜられた。
文徳朝末の天安2年(858年)5月27日卒去。享年74。

【参道】

200メートルほど続く参道は清々しい空気に満ちています。桜並木なので、春には美しい光景が見られることでしょう。

 

【手水舎】

創建は景行天皇41年(111)、畏奈良珠命(ひならすのみこと)が武甕槌・大国主・事代主の三神を奉祀しました。
伊予新皇の変において、常陸の国へと流刑に処せられた藤原宗成は、朝に夕にこちらの神社に参拝し、恩赦を祈りその願いが叶い京に帰ることができました。
そのお礼にこちらの「雲井宮」という号を贈ったとされています。

【隋神門】

【狛犬】

【拝殿】

【道祖神】

【天神社】

朝霧が立ちこめ、神秘的な雰囲気がある神社です。
豊穣のご利益があり、罪、穢れを祓い本来の良運に戻すご利益もあります。

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かねてよりワークショップ開催のご要望をいただいていたのですが、コロナの影響で延びに延び、やっと実現する運びとなりました。普段は除霊や開運調整を行っていますが、ワークショップでも簡易除霊を行います。そして自己を癒すワーク、その後願望実現ワークを行います。今は願いが叶う時代です。人々の意識が高まり。それが可能になりました。いくつになっても、夢は叶います。

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