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北斗七星伝説
鳥越神社
平将門にまつわる神社を地図上で結ぶと、北斗七星の形になるという都市伝説があります。
その北斗七星の一つとなる鳥越神社の社史には、平将門の記録は存在しませんが、将門公の手が祀られているという風説があります。
しかしこの件に関して、鳥越神社の宮司である鏑木啓麿宮司が、“鏑木(かぶらぎ)という姓(※)なので将門公を祀っていると勘違いされた”と明らかにされています。
(※鏑木氏は将門公の伯父、平良文氏の子孫である千葉一族であり、千葉宗家のなかでももっとも重用された家柄でした。)
また鳥越神社(東京都台東区鳥越2丁目4-1)の歴史を調べても、将門公の手がお祀りされたという風説は勘違いだったのではないかと思われてきます。
家康公に重んじられなかった神社
鳥越神社は江戸時代までは約2万坪もの社地を有しており、鳥越山(古くは白鳥山)と呼ばれた丘の上に鎮座されていました。
広大な社地には、「鳥越大明神」、「熱田明神」「第六天神」の三社が鎮座していて、これらを合わせて「鳥越三所明神」と称しました。
1590年、徳川家康が江戸入りし、江戸の再開発に伴って、「鳥越三所明神」は移転を余儀なくされ、鳥越山は完全に切り崩されます。
池があり、川に囲まれた風光明媚な場所であったのに、池が埋められ敷地がどんどんと狭くなり、最終的に規模をかなり縮小されました。
この経緯からして、家康公とブレーンの天海僧正が鳥越神社を大事に扱っていたとは言い難いものがあります。
あれほど将門公を畏れ敬っていた家康公が、将門公ゆかりの神社を名残もないほどに縮小させてしまうのは、かなり不自然だと感ぜられます。
都市伝説はファンタジーだった
宮司のお話と、家康公によって重んじられなかった経緯から、鳥越神社は将門公とは関係がなく、将門公の手が埋められたという風説は後世に創作されたものだと言えます。
平将門ゆかりの神社を結ぶと北斗七星の形になり、それは将門公を封じるためだという物語はとても面白いものです。ロマンあふれるフィクションとして大いに楽しむのがよいのではないでしょうか。
平将門公と関係があると勘違いされた鳥越神社は、今も地元の方に大変親しまれており、創建が651年と古く由緒ある神社です。日本武尊を御祭神としています。毎年6月9日に近い土曜・日曜には例大祭として鳥越祭が開催されています。
鳥越神社の千貫神輿は、台輪幅4尺3寸で重量は約千貫(約4トン)もあり、「お化け神輿」とも言われ、この御輿をかつぎ街を練り歩きます。この「千貫神輿」は東京で最大の重さになると言われます。