東京の守護神・平将門~他に類をみないほど強力な“陰”のパワースポット~①

平将門の首塚・真実を求めて
東京都千代田区大手町一丁目。ビジネス街の中心にひっそりと佇む平将門の首塚。訪れたことがなくても、この首塚に関する数々の伝承は、多くの人の耳に届いていることでしょう。「首塚を整地したり、不敬のふるまいをすると、平将門公の祟りによって不幸が訪れる」という噂は、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。実際に起きた事件は枚挙にいとまがなく、あたかも首塚が生きているかのように、人々に畏怖の念を抱かせてきました。
しかし、偶然、平将門の首塚の写真を見た時、私は怨霊伝説とは別の、圧倒的なエネルギーを感じました。世間の噂と実情は異なっていることが多々あります。長年語り継がれてきた怨霊伝説の裏には、隠された真実があるのではないか?そんな思いが頭から離れませんでした。
そこで、実際にこの目で確かめるべく、首塚を始め、平将門公にまつわる神社を巡る旅に出ることにしました。そこで見ることができた光景は、想像を遥かに超えるものでした。古の時代から連綿と続く人々の祈り、そして、将門公の魂が現代にも息づいていることを肌で感じることができました。
(旧江戸城の正門である大手門の近くにあり、周囲は高層ビルが立ち並ぶ将門の首塚。一歩外に出ると、ビジネスマンが行き交う光景が広がる。)
1.怨霊伝承の数々・畏怖の源泉
まずは、平将門公の首塚にまつわる怨霊伝承をいくつかご紹介しましょう。これらの伝承は、単なる迷信として片付けることはできません。そこには、歴史の深層に根ざした、人々の畏怖と敬意の念が込められているのです。
- 酒井家屋敷と伊達・原田の怪死: 江戸城が完成した頃(1636年頃)、このあたりは大名屋敷が建ち並ぶ地域となり、酒井家の屋敷が建てられました。首塚は、酒井家の屋敷の中庭に取り込まれる形となりました。その後、酒井家によって稲荷将門神社が建てられ、奥女中たちの信仰を集めるようになりました。しかし、1671年、酒井家の敷地内で、伊達安芸と原田甲斐が殺害されるという事件が発生し、将門公の祟りだと恐れられるようになりました。この事件は、首塚の存在に対する畏怖の念をさらに強めることとなりました。
- 大蔵省庁舎と14人の変死: 明治時代に入ると、酒井邸は取り壊され、大蔵省庁舎が建設されました。首塚はそのまま残され、大蔵省の敷地内の一角に位置することになりました。1923年の関東大震災で大蔵省庁舎は焼失し、焼け跡の整理の際、大蔵省は首塚を崩して整地し、その上に仮庁舎を建設することを決定しました。大蔵省の記録によると、この仮庁舎で働く職員に、ケガや病気が続出し、ついには大蔵大臣や幹部職員が相次いで14人も変死するという、奇怪な現象が起こったとされています。この事態に震えあがった役人たちは、仮庁舎を取り壊し、1927年、神田神社の社司による将門公の鎮魂祭を執り行いました。この鎮魂祭は、非常に盛大なものだったと言われています。ちなみに、この鎮魂祭を行った社司は、国学者平田篤胤の孫であり、将門公の末裔にあたる人物でした。自身の祖先の鎮魂を行うという、数奇な運命を背負っていたのです。
- 落雷と河田烈大蔵大臣の詫び状: ところが、鎮魂祭を執り行ったにも関わらず、祟りは収まりませんでした。1940年、大蔵省本庁舎に突然落雷があり、多数の死傷者が出ました。この年は、奇しくも将門公の没後1000年にあたる年でした。急遽、一千年祭りを盛大な規模で執行し、将門首塚保存費を新たに設けることになり、大蔵省役員全員で将門公の霊に詫びたということです。そして、当時の河田烈大蔵大臣自らが筆をとり、古跡保存費を建立しました。(この保存費は現在でも残っています。)この出来事は、大蔵省が首塚の祟りを深く恐れていたことを物語っています。
- 霞が関移転と庁舎全焼: その後、大蔵省はこの地を逃げ出すように、霞が関に移転しましたが、1945年の空襲で庁舎が全焼し、多くの役人が死傷しました。この出来事は、大蔵省が首塚の呪縛から逃れることができなかったことを示唆しているのかもしれません。
- GHQとブルドーザーの横転: GHQの資料によると、敗戦後、アメリカ軍が来て、単なる焼け跡としてブルドーザーで整地したところ、何かの石に当たって横転し、二人が下敷きとなり、ひとりは即死しました。焼土の中に墓石のようなものがあり、地元の人に聞くと、首塚であることが判明します。保存を司令部に陳情し、首塚はどうにか保存されることになりました。アメリカ軍も、首塚の存在に畏怖の念を抱いたのでしょうか。
- 日本長期信用銀行と行員の異変: しかし、異変は止まりません。1961年、首塚の東側の土地が日本長期信用銀行と三井生命保険相互のものとなり、ビルが建設されました。が、日本長期信用銀行が建設された場所が、首塚の旧参道上でした。2年後、塚に面した各階の部屋の行員が次々に発病します。そこで、神田神社の神官を招いてお祓いをしました。首塚の祟りは、場所を選ばず、人々に襲いかかるようです。
- 建設工事と二つのビルの明暗: 1973年には、首塚を挟んで二つのビルが建設されました。丁重に供養してから建設を始めたビルでは、事故は全く起きませんでしたが、もう一つの無関心であったビルでは、地下の工事中に二人の作業員が死亡し、同じ場所でケガをする人が続出したといいます。この出来事は、首塚に対する敬意の有無が、その後の運命を左右することを示唆しています。
これらの怨霊伝承は、平将門公の首塚が、単なる史跡ではなく、特別な力を持つ場所であることを物語っています。凄まじい威力を発揮する特別な場所であった将門公の首塚は、今は大切に保存されています。しかし、これらの出来事の裏では、祟り以外の別の力が働いているのではないか、と私は考えるようになりました。
2.首塚への祈り・怨霊を鎮める力
では、その「祟り以外の別の力」とは一体何なのでしょうか?
私は、首塚を訪れ、その空気を肌で感じてみました。ビジネス街の中心にありながら、そこだけは時間が止まっているかのような、静謐な空間が広がっていました。首塚の前には、常に花が供えられ、線香の香りが漂っています。多くの人々が、足を止め、手を合わせ、祈りを捧げていました。

その光景を見て、私は気づきました。首塚は、単なる怨霊の棲家ではなく、人々の祈りの場となっているのです。将門公の魂は、人々の祈りによって鎮められ、守られているのではないでしょうか。
3.将門公ゆかりの神社巡り・英雄の足跡を辿る
さらに、私は、将門公にゆかりのある神社を巡りました。神田明神、築土神社、兜神社など、数々の神社を訪れるうちに、将門公が単なる武将ではなく、人々に慕われ、敬愛されていたことがわかってきました。
- 神田明神・江戸を守護する魂 神田明神は、将門公を祀る神社として有名です。神田祭は、将門公の魂を慰めるために行われる祭りであり、江戸三大祭りの一つとして、多くの人々で賑わいます。神田明神を訪れた際、私は、将門公の魂が、今もなお、江戸の街を守り続けていると感じました。
- 築土神社・戦勝祈願の地 築土神社は、将門公が戦勝祈願をしたとされる神社です。境内には、将門公が使ったとされる太刀や鎧が奉納されています。築土神社を訪れた際、私は、将門公の武将としての魂を感じました。
- 兜神社・首塚の鎮魂 兜神社は、将門公の首を埋葬したとされる場所にある神社です。境内には、将門公の首を祀る塚があります。兜神社を訪れた際、私は、将門公の魂が、安らかに眠っていることを願いました。
4.祟り以外の力・魂と祈りの共鳴
これらの神社を巡る中で、私は、将門公の魂が、怨霊としてだけでなく、人々に勇気と希望を与える存在として、今もなお生き続けていることを確信しました。
では、冒頭で述べた「祟り以外の別の力」とは何なのでしょうか?
私の考えでは、それは、将門公の魂、そして、人々の祈りの力です。首塚は、怨霊伝説によって畏怖される場所であると同時に、人々の祈りの力によって守られ、鎮められている場所なのです。そして、その祈りの力は、将門公の魂を、怨霊から、守護神へと昇華させているのではないでしょうか。
つまり、首塚にまつわる一連の出来事は、単なる祟りではなく、将門公の魂と人々の祈りの力が織りなす、壮大なドラマなのです。
真実を求めて・歴史と魂の探求
私は、首塚を訪れ、将門公にまつわる神社を巡ることで、怨霊伝説の裏に隠された真実を知ることができました。そして、その真実は、私たちに、歴史の深さ、魂の尊さ、そして、祈りの力を教えてくれるのです。
この体験を通して、私は、世間の噂や固定観念にとらわれず、自分の目で確かめ、自分の頭で考えることの大切さを改めて認識しました。そして、これからも、真実を求めて、様々な場所を巡り、様々な人々と出会い、様々な経験を重ねていきたいと思っています。