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無秩序の中に見える秩序
福岡伸一氏は、科学者でありながらも画家フェルメールをはじめ芸術をこよなく愛する分子生物学者である。
福岡伸一氏 略歴
1959年東京生まれ。京都大学卒。
米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学総合文化政策学部教授。分子生物学専攻。専門分野で論文を発表するかたわら、一般向け著作・翻訳も手がける。
2007年に発表した『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、サントリー学芸賞、および中央公論新書大賞を受賞し、67万部を超えるベストセラーとなる。他に『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス、講談社出版文化賞)、『ロハスの思考』(ソトコト新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『動的平衡』(木楽舎)、『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、週刊文春の連載をまとめたエッセイ集『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋)など、著書多数
福岡氏の著作を読むと、研究室で研究を重ねるミクロの視点を超えた先の世界の美しさに気づく。
科学を追求していくと、その中に芸術性が見えてくる。
つまり、科学と芸術は等しいということに、あらためて気づくことができるのである。
以下、福岡氏の著書「芸術と科学のあいだ」の中から一部ご紹介する。
「昔、NHKの番組で小学生を相手に、私の生命論である『動的平衡』を講義するという企画を試みた。
私たちの身体はたんぱく質や脂質というミクロの粒でできているが、この粒々は機械部品のように固定されているのではなく、逆に、ものすごい速度で日々、交換されている。
今日、私を形作る粒は明日には壊されて排出され、食べ物に含まれる新しい粒に置き換えられる。
つまり昨日の私は今日の私ではなく、久しぶりに会った人との挨拶は『お変わりありまくりですね』が正しい。
粒がたえまなく流れながらも、私は私であるという同一性を保つ仕組み、つまり変わりつつ不変を保つのが、動的平衡である。
これを何とか可視化できないか。そこで思いついたのが丸いマグネットの粒だった。
この粒を使って黒板の上に大きな身体のカタチを作る。
同じマグネットの粒で食べ物を作り、これを食べさせる。
粒は吸収されて身体の一部になる一方、また別の一部が排泄されていく、という流れを作る。
このとき、一食分だけ食べ物の粒に蛍光塗料で色を塗っておく。これは可視光では見えない。
ところが部屋を暗くしてブラックライト(紫外線)をあてると、その粒だけが光って浮かび上がる。流れを追うと、粒は一瞬身体全体に広がり、身体の輪郭に沿って散らばったあと、遅い速いの差はあれ、やがて後からきた粒によって身体から追い出されていく。
つまり、私たちは常に動き、流れており、身体はそこに浮かぶうたかたにすぎない。
私たちは粒の容れ物ですらない。生きるとは流れそのものである。」
「生命を捉えるとき、私がキーワードとしているのは『動的平衡』という概念である。
たえず合成しつつ、常に分解し続ける。
この危ういバランスの上にかろうじて成り立っている秩序が生命現象だ。
恒常的に見えて、二度と同じ状態はない。
大きく変動しないために、いつも小さく変わり続ける。
動的平衡は決して新しい考え方ではない。
有名な方丈記の冒頭の一文、
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし』
を引くまでもなく、この世界観は、私たちの文化史の中に繰り返し現れている。」
「私たちは自分自身の存在を、外界から隔離された、しっかりした固体だと認識しているが、すこし時間軸を長くとれば、不断の流入と流出の中にある液体のようなものでしかなく、もっと長い目で見れば分子と原子が緩やかに淀んでいる不定形の気体であって、その外側にある大気とのあいだにはたえず交換が行われるゆえ、明確な区別や界面はない。」