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白い大蛇が守る金運神社
大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)
(茨城県下妻市大宝667)
茨城県南西部の下妻市の大宝八幡宮に参拝しました。
金運、必勝祈願の神社として有名です。大宝元年に建立されたため、大宝八幡宮となりました。
【隋神門】
昭和天皇御座位六十年を記念して建立された神門。一対の仁王像が狛犬同様に神前に邪気や穢れが近づかないように睨みを効かせています。かつて大宝八幡宮の境内には8つもの寺院(大宝八ヶ寺)があり、神仏習合の名残を感じさせます。
【隋神門の仁王様】
大宝八幡宮に車で向かう途中、梨やブドウ、栗の畑があちこちに見られ、水田がひろがります。下妻市の幸水は有名です。
また下妻市のコシヒカリが美味しいという評判があり、もちもちとした食感で冷めても美味しいミルキークイーンは、下妻市が発祥の地です。
【隋神門の仁王様】
【ご由緒】
大宝元年(701年)、藤原時忠公が筑紫(つくし)の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりです。
天台宗の古い経文の奥書に「治承三年(1179年)己亥七月二十二日の未時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあるため、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかります。
平将門公も戦勝祈願のために度々参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。 「吾妻鏡(あづまかがみ)」に下妻宮(しもつまのみや)としるされ、文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。
【大釜】
【摂社・末社】
ご祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)…第十五代応神(おうじん)天皇(八幡様)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)…第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)…神功(じんぐう)皇后(仲哀天皇の皇后)
八幡大神様は、その御代に治山治水・学問・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・縫製・紡績、その他あらゆる殖産興業の途や、衣食住等人間生活の根源を開発指導された文化の生みの親神であると同時に、武の道をつかさどる神としても世に名高く、まさに一切生業の守護神であられます。
御霊験はいよいよあらたかにましまし、大宝の御名に示されるように、財運招福の願い、厄除、交通安全、事業繁栄、家内安全、安産等の諸願を託す人が多く、日々の生活に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、その御神徳は広大にして無辺であります。
参堂の左右に狛犬がズラリと並びます。
【拝殿】
【ご本殿】
大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建されました。現在の建物は天正五年(1577)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたもの。再建当時の棟札墨書銘と擬宝珠刻銘も現存しており、貴重な史料となっております。建物は三間社流造で建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せておりますが、それに比べて組物は小柄で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が濃く表れています。屋根は萱葺きであったが、昭和40年に茅葺形銅板葺に改められました。天正期の地方的建築の有様を示す貴重な文化財として、国の重要文化財に指定されています。
【鐘楼】
明治の頃、神仏分離により取り壊された鐘楼が、平成の世になり復建されました。
【大宝七福神】
【若宮八幡宮】
源頼朝が奥州征伐を達成したのを期に、下河辺行平に命じ文治五年(1189)に勧請させた八幡宮。若宮様は第十六代仁徳天皇のことで、その父親が第十五代応神天皇八幡様です。御本殿には第十四代仲哀天皇をお祀りしているので、親・子・孫と三代続けてお祀りしていることになります。
【神馬舎】
大宝八幡宮では流鏑馬も行われています。
【黒鳥神社】
大国主命を祀ったお社。縁結びの御利益があるといわれています。社伝によると、日光東照宮の眠り猫などで有名な左甚五郎が、若い頃に大宝八幡宮に滞在し、残したという堀り物があります
下妻市の歴史
日本最古の足跡
下妻市の隣の真壁郡関城町大字辻字西原にある西原遺跡から、約2万8000年前の遺跡が見つかっています。
1988年に行われた発掘調査により、西原遺跡は先土器時代、縄文時代、古墳時代の3期 にわたる複合遺跡であることが半明しました。
縄文時代、古墳時代の住居跡及び貯蔵穴が多く検出され、その中で特筆すべきものは、テレビや新聞で全国に報道され話題を呼んだ「日本最古の縄文人の足跡」の発見でした。
これは、パリノ・サーヴェイ社によるテフラ分析及び学習院大学放射性炭素年代測定室による測定の結果、約1万年前以降のものであるという結果報告を受け、日本最古の足跡であることが裏付けられました。
次に、堅穴式住居跡から出土した土器は、茨城県では初めてといわれ、これと同様の土器は長野県を中心に出土しており、当時の西原遺跡の縄文人が中部山岳地の縄文人と深い文化交流があったことを示すものと考えられています。
縄文時代には長野と茨城の人の間で交流があったという証拠がみつかりました。
平将門公にお告げを与えた巫女
平安時代中期、平氏一族が常陸において強大な勢力を誇り、下妻市域は平将門の乱(※)の舞台でした。
平将門はたびたび大宝八幡宮に参拝し、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、“朕の位を蔭子平将門にお授けいたす。”と告げられました。
その即位を正当化するものとして、八幡大菩薩と菅原道真が登場し、平将門に“天皇の位を授け奉る”と告げたのでした。
その八幡宮が、こちらの大宝八幡宮と伝えられています。
※平将門の乱:平安中期、関東に起こった内乱。平将門は、939年常陸・下野・上野の国府を占領、一時関東を支配下において新皇を称したが、940年平貞盛・藤原秀郷らに討たれた。同時期の瀬戸内海における藤原純友の乱とともに承平・天慶の乱という。
大宝城跡(だいほうじょうあと)
平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼地であったと思われるから、三北断崖に面した要害の地であった。
東西288m、南北576mで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手(からめて)とした。
1341年11月春日中将顕国(かすがちゅうじょうあさくに)が興良新皇(おきながしんのう)を奉じて小田原城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。その後、北朝方の猛攻を受けて苦戦を続け、食料不足と城内不和のため、1343年11月12日に落城。城主下妻政泰は討死にした。
城郭は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めている。八幡宮裏に1931年5月建立の「贈正四位下妻政泰死之地」の碑と、1943年11月の「下妻政泰公碑」が建っている
平成8年3月 下妻市教育委員会
大宝神社の境内があるこの地には、南北朝時代には大宝城(だいほうじょう)という城がありました。城主は下妻政泰(しもつままさやす)(※)公です。
※下妻政泰(しもつままさやす):小山長政の孫。常陸(ひたち)下妻の地頭。居城の大宝城に興良(おきよし)親王,春日顕国(あきくに)をむかえ,大宝湖の対岸の関城主関宗祐(むねすけ)とともに北畠親房(ちかふさ)をささえ,北朝方と戦う。康永2=興国4年高師冬(こうの-もろふゆ)に攻められ,11月12日自刃(じじん)
大宝城は、共に戦った関宗祐の居城、関城(現在の筑西市にあった)から南へ1kmほどです。南北朝のころ、関城と大宝城の間には沼があり、互いに舟で行き来していました。
【後醍醐天皇】
金運が大きく拓ける神社
大宝城の城主が戦に敗れ自刃(じじん)するという歴史をもつ大宝八幡宮ですが、城主は今は晴れ晴れと成仏されたのでしょう。
ここを訪れると晴れ晴れとした気持ちになる、非常に気持ちの良い神社です。
参拝する前とした後では、気分が全く異なります。
参拝後は大きな安心感に包まれ、肩の荷が軽くなるような解放感を覚えました。
ここまで晴れ晴れとした気分になるのは、いつ以来かと思うほどの爽快感があります。
お金に関するご利益を頂ける神社です。