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神田明神 (正式名称:神田神社)
東京都千代田区外神田2-16-2
JR中央線・総武線「御茶ノ水」駅の聖橋口より徒歩約5分
JR京浜東北線・山手線、地下鉄日比谷線「秋葉原」駅電気街口より徒歩約7分
東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水」、千代田線「新御茶ノ水」、銀座線「末広町」各駅聖橋口より徒歩約5分
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神田明神の歴史
社殿によると、奈良時代の天平2年(730年)に武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町)にご創建。当初は大己貴命の一柱を奉斎し、やがて平将門の首が芝崎村の傍らに葬られた由縁をもって延慶2年(1309年)には平将門公もご祭神として祀られるようになりました。やがて江戸を本拠と定めた徳川家康が天下分け目の関ヶ原の合戦の際、当社の守護符を受けて出陣し、当社の祭礼日に勝利を得た奇縁に喜び家康公は特に厚い崇敬を捧げられました。
その縁起の守護符は現在も『勝守』として多くの人々の信仰を集めています。
やがて二代将軍秀忠の時代、元和2年(1616年)には現在の境内に移転し、江戸城鬼門(艮)の守護神として、また江戸総鎮守の称号を賜り、江戸っ子の崇敬を集めました。さらに神田祭は日本三大祭りの一つとして知られ、三十六代台の華麗な山車行列と様々な附祭の賑わいによって全国にその名を知られてきました。特に元禄以降には江戸城内に祭礼行列が参入し、将軍(天下)様ご上覧の祭ということで天下祭とも呼ばれるようになりました。
こうした歴代徳川将軍から手厚い庇護を受けてきた当社ですが、明治維新を迎えると大きな変革が待ち受けていました。まず社号が神田明神から神田神社へと改称され、平将門公は祭神から外されて少彦名命(すくなひこなのみこと)が新たな祭神に迎えられてきました。そして明治天皇の御親拝が明治7年に行われたことによって象徴されています
また、天下祭として知られた神田祭にも大きな変革が訪れ、鉄道路線や電線の架設等の事情により山車行列は取り止められ、各町の神輿が神田祭の中心になりました。
なお、大正12年の関東大震災により木造社殿が倒壊したことにより、伝統的神社建築の近代化の先駆けとして鉄骨鉄筋コンクリート造り朱漆塗の壮麗な社殿が昭和9年に竣工しました。この新社殿の設計陣には伊藤忠太、大江新太郎、佐藤功一といった当代一流の技師があたり、在来の木造建築技術をしのぐ、美しい曲線をコンクリートで見事に再現しました。この不燃建築の社殿は、大東亜戦争末期の爆撃に対しても強い耐久力を発揮し、境内諸建築をはじめ近在の建物が一切灰塵に帰したにもかかわらず、唯一つ高台にそびえる当社社殿の英姿は敗戦に打ちひしがれた多くの人々に復興の希望と安心を与え続けて氏子を見守ってきました。
それは戦中・戦後と中断していた神田祭が、昭和27年には早くも復興したことによっても明らかです。そして同40年には氏子の希望により、初の近代的総合結婚式場『明神会館』が完成し、また同51年には隋神門が再建。さらに同59年には平将門公が正式に祭神に復座し、往時の伝統に再び立ち返り今日に至っております。
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ご祭神
・一ノ宮 大己貴命 (おおなむちのみこと)
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。
国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。
・二ノ宮 少彦名命 (すくなひこなのみこと)
えびす様。商売繁昌の神様。
商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。
・三ノ宮 平将門命 (たいらのまさかどのみこと)
まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。
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随神門
昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾っている。また二層目に金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公に由来する。その後、平成10年の『平成の御造替事業』によって、鮮やかに塗替えられた。外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置。この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用している。一木造。長崎平和祈念像制作者として有名な
北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修による。松下幸之助氏奉納。内側には、神馬一対を配している。氏子総代・遠藤達藏氏により奉献。
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江戸神社
大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されている。慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移った。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称された。
慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われた。
明治元年(1868)に神社名を「須賀神社」に改めた。同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座した。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めた。
平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平・作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っている。今も江戸神社奉賛会の人々により崇敬されている。
2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入している。
大伝馬町八雲神社
小舟町八雲神社
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狛犬
昭和8年5月、氏子有志により奉献された。
狛犬は、神社の守護役あるいは神さまの使いとして、邪気を払う役割を持つ存在。向って左側の一角獣を「狛犬」、右側を「獅子」と言いますが、両方あわせて「狛犬」というのが一般的である。
当社の狛犬は、正面を向いているという非常に珍しいもので、造形については、動物彫刻を得意とした池田勇八が原型を作成しているので、よりリアルで精悍な表情をしている。
- 資料館(受付は文化交流会館1階になります。)
資料館には、平将門の浮世絵や、大変立派な山車型御帳台、平将門公が自ら彫ったとされる木彫りの妙見像などが陳列されています。
・妙見像
将門を始祖と仰ぐ相馬家に伝来した像。将門公の手彫りと伝承されている。妙見は北斗七星を神として崇めた名称。
・平新皇将門公 御真影(七人影武者像) 三宅蘭崖 昭和初期
・山車型御帳台 江戸時代後期より明治初期の作
日光東照宮の御造営の際、全国から宮大工や彫刻師等の職人が呼び集められ、御造営にあたった。御造営を終えると職人等は全国に帰省することになったが、一部職人は、日光周辺より関東一円に定住し、社寺の建築にあたった。なかには、豪商のおかかえとなり、屋敷神の五ご神殿を造るものもあった。
この彫刻尽くしの御帳台(神様を祀る御神楽)は、こうした日光の豪商の依頼を受けて造られたと考えられる。御祭礼の折りには、客を招き床の間に守護神を祀り、美術品を飾り立て自慢し合う風習があった。
この御帳台は、日光地方に伝えられた。江戸後期から明治初期に造られた、たぐいまれな山車型の御帳台と考えられます。
当時の山車彫刻の繊細な技術を見ることができます。
戦後、日光市の篤志家により当社に奉納されたものであります。