平将門公をお祀りする神社④神田明神

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神田明神(神田神社)・歴史、信仰、建築、そして未来への息吹

東京都千代田区外神田に鎮座する神田明神、正式名称を神田神社というこの古社は、単なる歴史的建造物という枠を超え、日本の精神文化、信仰、そして技術革新の縮図として、現代においても人々を魅了し続けている。奈良時代に遡る創建以来、時代時代の変遷を経て、その姿を変えながらも、常に人々の心の拠り所として、東京、そして日本の歴史を見守ってきた。

古の息吹・創建と平将門公との深い縁

神田明神の歴史は、奈良時代の天平2年(730年)に始まる。武蔵国豊島郡芝崎村、現在の千代田区大手町に創建された当初は、大己貴命(おおなむちのみこと)を一柱のみを奉斎していた。大己貴命は、国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮された神様であり、縁結びの神様としても広く信仰を集めている。

神田明神の歴史を語る上で欠かせないのが、平安時代中期の武将、平将門公との深い縁である。承平・天慶年間、武士の先駆けとして関東の政治改革を志し、民衆を守るために命を懸けた将門公の首が、芝崎村の傍らに葬られたという伝説が残されている。延慶2年(1309年)、将門公の御霊はその勇猛果敢な生き様と民衆からの篤い信仰心により、神田明神の祭神として祀られることとなった。将門公は、今もなお「まさかど様」として、除災厄除の神様として崇敬されている。

江戸の守護神・徳川幕府の庇護と神田祭の隆盛

江戸時代に入り、神田明神は徳川幕府との深い繋がりを持つこととなる。徳川家康は、天下分け目の関ヶ原の合戦の際、神田明神の守護符を受けて出陣し、勝利を収めた。その奇縁に感激した家康は、神田明神を篤く崇敬し、その後の徳川幕府も神田明神を手厚く庇護した。

二代将軍秀忠の時代、元和2年(1616年)には、神田明神は現在の地、外神田へと移転した。江戸城の鬼門(艮)を守護する神として、また江戸総鎮守の称号を賜り、江戸の町、そしてそこに暮らす人々からの崇敬を集めるようになった。

江戸時代を通じて、神田祭は日本三大祭りの一つとして隆盛を極めた。三十六台にも及ぶ華麗な山車行列と、様々な附祭の賑わいは、江戸の町を活気づけ、全国にその名を知らしめた。特に元禄以降には、祭礼行列が江戸城内に参入し、将軍(天下)様ご上覧の祭ということで「天下祭」とも呼ばれるようになった。

明治維新の変革・社号改称と祭神変更

徳川幕府が終わりを告げ、明治維新を迎えると、神田明神にも大きな変革が訪れた。社号は神田明神から神田神社へと改称され、平将門公は一時、祭神から外されてしまった。代わりに、少彦名命(すくなひこなのみこと)が新たな祭神として迎えられた。

明治7年には、明治天皇の御親拝が行われ、神田神社は新たな時代における重要な神社としての地位を確立した。しかし、天下祭として知られた神田祭にも変化が訪れ、鉄道路線や電線の架設等の事情により、山車行列は取り止められ、各町の神輿が神田祭の中心となっていった。

震災からの復興・鉄筋コンクリート造りの社殿と信仰の灯火

大正12年(1923年)の関東大震災により、木造の社殿は倒壊してしまう。しかし、この悲劇を乗り越え、神田神社は新たな社殿を建設することとなる。伝統的神社建築の近代化の先駆けとして、鉄骨鉄筋コンクリート造り、朱漆塗の壮麗な社殿が昭和9年(1934年)に竣工した。

設計には、伊藤忠太、大江新太郎、佐藤功一といった当代一流の技師があたり、在来の木造建築技術を凌駕する、美しい曲線をコンクリートで見事に再現した。この不燃建築の社殿は、第二次世界大戦末期の爆撃に対しても強い耐久力を発揮し、境内諸建築をはじめ近在の建物が一切灰塵に帰したにもかかわらず、唯一つ高台にそびえるその英姿は、敗戦に打ちひしがれた多くの人々に復興の希望と安心を与え続けた。

戦中・戦後と中断していた神田祭が、昭和27年には早くも復興したことからも、神田神社が人々の心の拠り所としていかに重要であったかがわかる。同40年には、氏子の希望により、初の近代的総合結婚式場『明神会館』が完成し、また同51年には隋神門が再建された。

伝統への回帰・平将門公の復座と現代への継承

昭和59年(1984年)には、平将門公が正式に祭神として復座し、神田神社は往時の伝統に再び立ち返った。将門公は、現代においても除災厄除の神様として、多くの人々に信仰されている。

神田明神は、その長い歴史の中で、様々な変遷を経てきた。しかし、常に人々の心の拠り所として、信仰の灯を絶やすことなく、現代へと受け継がれてきた。その姿は、日本の歴史、文化、そして信仰心の縮図とも言えるだろう。

神田明神を彩る社殿と見どころ

神田明神には、歴史と信仰が息づく数々の社殿や見どころがある。

本殿

大己貴命、少彦名命、平将門命の三柱が祀られている。朱塗りの壮麗な社殿は、昭和9年に再建されたものであり、鉄筋コンクリート造りでありながら、伝統的な神社建築の美しさを保っている。

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随神門

昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建された。総檜・入母屋造、二層建ての門には、四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)や、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が施されている。二層目には、金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られている。

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江戸神社・江戸最古の地主神を祀る神社

大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されている。慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移った。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称された。

慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われた。

明治元年(1868)に神社名を「須賀神社」に改めた。同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座した。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めた。

平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平・作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っている。今も江戸神社奉賛会の人々により崇敬されている。

2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入している。

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狛犬

昭和8年5月、氏子有志により奉献された。正面を向いているという非常に珍しいもので、動物彫刻を得意とした池田勇八が原型を作成しているので、よりリアルで精悍な表情をしている。

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・一ノ宮 大己貴命 (おおなむちのみこと)

だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。

国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。

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大伝馬町八雲神社

大伝馬町八雲神社は、東京都千代田区外神田に位置し、神田明神の摂社として知られています。主祭神は建速須佐之男命で、江戸時代以前から祀られてきた由緒ある神社です。神社は独特の朱色の柱と扉が特徴で、訪れる者の目を引く存在です。また、神社は歴史的に三天王の二の宮としても位置づけられ、地域の信仰の中心でした。祭礼時には大伝馬町の御仮屋まで神輿が渡御する習わしがあります。

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小舟町八雲神社

小舟町八雲神社は、東京都千代田区にある神社で、神田明神(神田神社)の摂社の一つです。この神社は「三天王」の一社で、特に格が高いとされています。ご祭神は建速須佐之男命で、祭礼日は毎年6月6日です。この日は地域の神輿が神社から町内を渡御します

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資料館

平将門の浮世絵や、大変立派な山車型御帳台、平将門公が自ら彫ったとされる木彫りの妙見像などが陳列されている。

資料館には、平将門の浮世絵や、大変立派な山車型御帳台、平将門公が自ら彫ったとされる木彫りの妙見像などが陳列されています。

妙見像
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将門を始祖と仰ぐ相馬家に伝来した像。将門公の手彫りと伝承されている。妙見は北斗七星を神として崇めた名称。

平新皇将門公 御真影(七人影武者像) 三宅蘭崖 昭和初期
山車型御帳台 江戸時代後期より明治初期の作
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日光東照宮の御造営の際、全国から宮大工や彫刻師等の職人が呼び集められ、御造営にあたった。御造営を終えると職人等は全国に帰省することになったが、一部職人は、日光周辺より関東一円に定住し、社寺の建築にあたった。なかには、豪商のおかかえとなり、屋敷神の五ご神殿を造るものもあった。

この彫刻尽くしの御帳台(神様を祀る御神楽)は、こうした日光の豪商の依頼を受けて造られたと考えられる。御祭礼の折りには、客を招き床の間に守護神を祀り、美術品を飾り立て自慢し合う風習があった。

この御帳台は、日光地方に伝えられた。江戸後期から明治初期に造られた、たぐいまれな山車型の御帳台と考えられます。

当時の山車彫刻の繊細な技術を見ることができます。

戦後、日光市の篤志家により当社に奉納されたものであります。

現代における神田明神の役割・伝統と革新の融合

神田明神は、現代においても人々の生活に深く根ざしている。伝統的な祭礼や行事を守りながらも、アニメやゲームとのコラボレーションなど、新たな試みにも積極的に取り組んでいる。

特に、秋葉原という電気街に隣接していることから、IT関連企業からの信仰も篤く、IT守護の神社としても知られている。また、結婚式場としても人気があり、多くのカップルが神田明神で永遠の愛を誓っている。

神田明神は、伝統を守りながらも、常に新しいことに挑戦し、時代に合わせた形で人々の心の拠り所であり続けている。その姿勢は、日本の伝統文化の未来を示唆していると言えるだろう。

未来への息吹・神田明神の普遍的な価値

神田明神は、単なる観光名所ではなく、日本の歴史、文化、信仰が凝縮された、生きた博物館である。その長い歴史の中で培われてきた精神は、現代においても普遍的な価値を持ち続けている。

人々の幸せを願い、地域社会に貢献する神田明神の精神は、これからも変わることなく、未来へと受け継がれていくことだろう。神田明神は、過去と現在、そして未来を結ぶ架け橋として、これからも日本の精神文化を支え続けていくに違いない。そして、訪れる人々に、希望と安らぎを与え続けることだろう。

ABOUT ME
Shokey Hayashi
Shokey Hayashi
エクソシスト/ラジオニクス技法研究家
1965年、青森県に生まれ 幼少期から霊的な現象によるトラブルや病気、怪我に悩まされてきた。しかし、20歳のある日、イベント参加、会場で不思議体験、天からの稲妻エネルギーが降り注ぎ、脳から脊髄を貫くような衝撃を受け、霊能力が開花。その後、心理学と超能力の研究をスタート、現在は、霊能力と意識工学を融合させた。独自のラジオニクス技法をにて「ラジオニクス除霊」を確立。除霊、供養、癒しを超えた「運気の治療まで可能となる」
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